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{{複数の問題|脚注の不足=2022年8月|未検証=2019年4月|独自研究=2022年8月}}
{{Battlebox
| battle_name = 華事変中戦争
| campaign = 日中戦争
| colour_scheme = background:#ffccaa
| image = [[File:Second Sino-Japanese Occupation -War Mapcollection.jpgpng|300px]]
| caption = [[1940年]]時点の中国での勢力図。桃色が戦う[[日本軍]]の占領地、薄緑色が[[中国国民革命軍|民党]]など中国政府の統治地域。
| conflict = '''華事変([[1941中戦争'''(1941]][[12月812]]より[[第二次世界対大東亜]]の一部となる<ref>{{Cite web |url=https://www.y-history.net/appendix/wh1504-059.html |title=日中戦争 |publisher=世界史の窓 |accessdate=2022-10-22}}</ref>
| date=1937年7月7日から1945年9月9日
| date = [[1937年]][[7月7日]] ~ [[1945年]][[8月15日]]<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-171498 |title=日中戦争とは |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2022-10-22}}</ref>
| place = [[中華民国]](当時は[[内蒙古]]・[[華北]]・[[華]]・[[民国]])、[[イギリス統治下のビルマ|イギリス領ビルマ]]
| result=中華民国{{refnest|group="注釈"|「惨勝」<ref name="安井791">[[安井三吉]]「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、1987年9月1日 初版第一刷発行、ISBN 4-09-526017-3、791頁。([https://kotobank.jp/word/日中戦争-171498#惨勝 コトバンク])</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「アジア大陸において日本は、連合国の一員であった中華民国に敗北し、中国は自らの勝利を[惨勝]と称した。」<ref name="野澤ii">[[野沢豊|野澤豊]]『日本の中華民国史研究』汲古書院、1995年9月1日 発行、ISBN 4-7629-2484-9、ii頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「「惨勝」(惨儋たる勝利)と呼ばれるような終止符」<ref>[[奥村哲]]『中国の現代史: 戦争と社会主義』青木書店、1999年12月、ISBN 4-250-99053-2、105頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「惨たんたる状態で迎えたこの勝利は、あまりにも大きな犠牲をしいられた「惨勝」であったというほかはない。」<ref>[[彭沢周]]『現代中国史: 五四運動から四人組追放まで』泰流社、1978年7月、ISBN 978-4-88470-257-1、153頁。</ref>}}と[[連合国]]の勝利{{refnest|group="注釈"|「中国内部の国民党と共産党や中間派との軋轢など、いろいろな問題を内包しながらも四五年八月一五日、中国と連合国とは勝利した。」<ref>[[姫田光義]]編『中国20世紀史』東京大学出版会、1993年12月1日 発行、ISBN 978-4-13-022013-2、144頁。</ref>}}<ref name="野澤ii"/>
| result = 中国側、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の勝利。日本軍の[[日本の降伏|降伏]]、撤退。
| combatant1 = '''日本側枢軸国'''
*{{JPN1889}}
*{{MCK}}
*{{MJG}}
*{{CHN1940}}
| combatant2 = '''連合'''
*{{CHN1928}}
*{{SGN}}
*{{USA1912}}
*{{GBR5}}
*{{SSR1923}}
| commander1 = {{Flagiconflagicon|JPN1889}} [[近衛文麿]]<br/>{{Flagicon|JPN1889大日本帝国}} [[香月清司]](1937-38)<br />{{Flagiconflagicon|JPN1889大日本帝国}} [[松井石根]](1937-38)<br />{{Flagiconflagicon|JPN1889大日本帝国}} [[朝香宮鳩彦王]](1937-38)<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[寺内寿一]]<br/>{{Flagiconflagicon|JPN1889大日本帝国}} [[西尾寿造]](1939-41)<br />{{Flagiconflagicon|JPN1889大日本帝国}} [[畑俊六]](1941-44)<br />{{Flagiconflagicon|JPN1889大日本帝国}} [[岡村寧次]](1944-45)<br/>{{Flagicon|MCK}} [[愛新覚羅溥儀]]<br/>{{Flagiconflagicon|MCK満州国}} [[張景恵]]<br />[[Fileファイル:Flag of the Mengjiang.svg|25x20px|border]] [[李守信]]<br/>[[File:Flag of the Mengjiang.svg|25x20px25px|border蒙古聯合自治政府の旗]] [[デムチュクドンロブ]](1939-1945)<br />{{Flagicon|CHN1940}} [[汪兆銘]](1940-1944)<br />{{Flagicon|CHN1940}} [[陳公博]]<br/>{{Flagicon|CHN1940}} [[周仏海]](1944-1945)
| commander2 = {{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[蔣介石]]<br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[何応欽]]<br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[衛立煌徐永昌]]<br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[閻錫山陳誠]]<br/>{{Flagicon|CHN1928}} [[顧祝同]]<br/>{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[李宗仁]]<br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[陳誠閻錫山]] <br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[薛岳毛沢東]]<br />{{Flagiconflagicon|CHN1928中華民国}} [[蔣鼎文]]<br/>[[File:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25x20px|border]] [[毛沢東]]<br/>[[File:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25x20px|border]] [[朱徳]]<br />{{Flagiconflagicon|USA1912}} [[ジョセランクリンスティーズベウェ]](1941-44)<br />{{Flagiconflagicon|USA1912}} [[クレア・リー・シェンノート]](1941-44)<br />{{Flagiconflagicon|USA1912}} [[ジョセフ・スティバート・ウェデマイヤー]](1944-45)<br />{{Flagiconflagicon|GBR}} [[ルイス・マバッテ・チャーチル]](1941-45) <br />{{Flagicon|SSR1923}} [[アレクサンドル・ヴァリン]]
| strength1=<!-- 軍人<br />約(最盛期)<ref name="A">『幾山河 : <small>瀬島龍三回想録</small>』 産経新聞ニュースサービス、1996年、ISBN 4-594-02041-0 {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref> -->
| strength1 = 105万人<ref>{{Cite web |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2049 |title=日中戦争 |publisher=ジャパンナレッジ |accessdate=2022-10-22}}</ref>
| strength2=<!--軍人<br />約(最盛期)<ref name="A"/><br /> -->
| strength2 = 諸説あり{{要出典|date=2022年10月}}
| casualties1=<!-- 軍人<br />約<ref name="A"/><br />民間人 不明 -->
| casualties1 = 41万人[[戦死]]、92万人負傷<ref>{{Cite web |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2049 |title=日中戦争 |publisher=ジャパンナレッジ |accessdate=2022-10-22}}</ref>
| casualties2=<!--軍人<br />約<ref name="A"/><br />民間人<br /><ref name="A"/>(民兵及び民間人の内訳は不明) -->
| casualties2 = 130万人戦死、300万人負傷<ref>{{Cite web |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2049 |title=日中戦争 |publisher=ジャパンナレッジ |accessdate=2022-10-22}}</ref>
|}}
 
{{wikiquote}}
 
{{読み仮名|'''日華事変中戦争'''|にっかじへちゅうせそう}}は、[[1937年]]([[昭和]]12年)から[[1945年]](昭和20年)まで、[[大日本帝国]]の軍隊と[[中華民国の歴史|中華民国]]の軍隊の間で行われた[[戦争]]に近い本格的な[[戦闘]]である。一般的には、'''日中戦争華事変'''と呼ばれ<ref>文部科学省公式web『学制百年史』より総説「五 戦時下の教育」(十二年の日華事変)作成:学制百年史編集委員会(登録:平成21年以前)</ref><ref group="注釈">'''日支事変''' ([[満洲事変]]と[[第一次上海事変|上海事変]]の総称として使用された例もある)や'''日華事変'''とも呼称される。</ref>{{refnest|group="注釈"|中国語圏では、'''抗日戦争'''<ref>平凡社『世界大百科事典』 (2007年版、改訂新版) 9巻、p.574 「抗日戦争」の項目より</ref>、'''八年抗戰'''、'''中日戰爭'''、'''中国抗日戦争'''、'''中国人民抗日战争'''、'''八年抗戦'''などと呼称される。}}<ref group="注釈">[[英語圏]]では、[[1894年]] - [[1895年]]の[[日清戦争]]を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年 - 1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。</ref>、'''支那事変'''とも呼ばれる
 
== 呼称 ==
{{Main2|日本における呼称の変遷|支那事変}}
日本側では、紛争が勃発した当初は'''北支事変'''と称し、1937年(昭和12年)9月の[[第1次近衛内閣]]の[[閣議]]決定で'''支那事変'''を正式の呼称とした{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}<ref name=kakugikettei19370902>{{cite web |date=1937-09-02 |url=https://rnavi.ndl.go.jp/cabinetpolitics/entry/bib00145.htmlphp |title=事変呼称ニ関スル件 |work=[[内閣官房]] |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-01-22 }}</ref>。
 
[[戦争]]でなく[[事変]]と称されたのは、[[盧溝橋事件]]後に本格的な[[戦闘]]が行われても、[[1941年]](昭和16年)12月に[[大東亜戦争]](アジア太平洋戦争]]が勃発するまで両国は[[宣戦布告]]を行わなかったからである。その理由として、日中両国が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[中立法]]の発動による[[経済制裁]]を避けたかったことが挙げられる。
このため日本国内では「戦時」に適用される[[国家総動員法|軍需工業動員法]]が「事変」では適用できないとして、国会で必要な法律改正が行われることもあった<ref>日中事変への適用法案を議会に提出『東京日日新聞』(昭和12年9月2日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p127 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
 
日本側は事態の早期収拾も狙っており{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}、また、戦争ともなれば天皇の許可([[聖断]])が必要になるからであった([[昭和天皇]]は戦争に反対だった)。一方中国側は、国内での近代兵器の量産体制が整わないままであることから、開戦により軍需物資の輸入に問題が生ずる懸念があった{{sfn|石川禎浩|2010|p=178}}ことに加え、[[軍閥]]や[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]との[[内戦]]の行方も不透明であったことから、[[中国国民党]]の[[蒋介石]]は「安内攘外」政策をとり、国内の統一(共産党との決着)を優先すべき問題と捉えていた<ref name="AASPR_8">{{Cite web |author=工藤信弥 |url=https://www.mod.go.jp/asdf/meguro/center/20_stdy/asp08/11_syoukaiseki.pdf |title=日中戦争における蒋介石の戦略形成と重心移行 |website=エア・アンド・スペース・パワー研究(第8号) |publisher=[[防衛省]] |format=PDF |accessdate=2021-08-30}}</ref>。
 
大東亜戦争(アジア太平洋戦争が始まると、蔣介石の[[国民政府|重慶政府]]が米英とともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、日本側の[[東條内閣]]は10日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ[[大東亜戦争]]ト呼称ス」ことを決定した<ref name=kakugikettei19411212>{{cite web| date = 1941-12-12| url = https://rnavi.ndl.go.jp/cabinetpolitics/entry/bib00362.htmlphp| title = 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ| work = [[内閣官房]]| publisher = [[国立国会図書館]]| accessdate = 2011-10-15}}</ref>。
 
== 時期区分 ==
華事変中戦争の期間の一般的な見解は1937年(昭和12年) - 1945年(昭和20年)までであるが{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=79}}、日本では歴史認識の違いによって「先の大戦」の呼称([[大東亜戦争]]、[[十五年戦争]]、[[アジア太平洋戦争]]など)が分かれており{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=43}}、「'''華事変'''」が最も立的な呼称とされるなど日華事変戦争の位置づけには様々な解釈がある。[[臼井勝美]]は、「前史: [[塘沽協定]]から[[盧溝橋事件]]まで、1933年6月 - 1937年7月」、「第一期: 盧溝橋事件から[[太平洋戦争]]勃発まで、1937年7月 - 1941年12月)」、「第二期: 太平洋戦争から敗北まで、1941年12月 - 1945年8月」の三期に区分している<ref name="臼井1">{{Harvnb|臼井勝美|2000|p=1}}</ref>。[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]は、「前史 [[満洲事変]]から盧溝橋事件勃発前まで」、「第一期 盧溝橋事件から[[武漢作戦]]まで」、「第二期 武漢作戦から太平洋戦争勃発まで」、「第三期 太平洋戦争勃発から終戦まで」の四期に区分している<ref name="小林7">小林英夫『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ <講談社現代新書 1900>』講談社、2007年7月20日、ISBN 978-4-06-287900-2、7頁。</ref>。
 
[[中国共産党]]の公式な見解は、[[1935年]]の抗日人民宣言から始まり、1937年の盧溝橋事件([[七七事変]])からとされていたが、[[2017年]]1月[[中華人民共和国教育部|中国教育省]]は中国の教科書で使われている「日本の[[侵略]]に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日華事変中戦争の始まりを[[1931年]]の「[[柳条湖事件]]」まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した<ref>[https://newsphere.jp/world-report/20170112-1/ 中国、抗日戦争14年間に教科書修正 海外から“歴史改ざん”の指摘] NewSphere 2017-1-12</ref>。
 
== 前史 ==
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8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定<ref name="usu77to87"/>。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた<ref name="kawakami152to171"/>。
 
翌[[8月14日]]には中国空軍は[[第二次上海事変#国民党機による上海空|上海空爆]]を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た<ref name="usu77to87"/><ref name="osugi284to288"/>。
 
第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した{{refnest|group="注釈"|「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」<ref>[[臼井勝美]]「上海事変」外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年5月20日 発行、ISBN 4-634-62200-9、387頁。</ref>}}<ref>『永久保存版 シリーズ20世紀の記憶 第7巻 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争: 1937-1945』毎日新聞社、2000年4月1日 発行、11頁。「上海・南京攻略により華北の戦火は華中に飛び、戦いは「日中全面戦争」へと拡大、泥沼化する。」、22頁。「年表 第2次上海事変から日中全面戦争へ」</ref>{{refnest|group="注釈"|「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」<ref>[[茶谷誠一]]『昭和天皇側近たちの戦争』吉川弘文館、2010年5月1日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-05696-0、136頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。」<ref>[[安井三吉]]「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、787頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」<ref>[[芳井研一]]「日中戦争」吉田裕・森武麿・伊香俊哉・高岡裕之編『アジア・太平洋戦争辞典』吉川弘文館、二〇一五年十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、508頁。</ref>}}。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある<ref name="kawakami152to171"/><ref name="osugi284to288"/>。[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は[[8月15日]]、「もはや隠忍その限度に達し、[[暴支膺懲|支那軍の暴虐を膺懲し]]、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は排日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、[[上海派遣軍]]が編成された<ref name="usu77to87"/><ref>『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面</ref>。一方、同8月15日に[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]]も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蔣介石が就任、戦時体制を確立し、さらに[[中国共産党]]も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった<ref name="osugi284to288"/>。
266 ⟶ 265行目:
* [[4月13日]] - [[日ソ中立条約]]調印。蔣介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした<ref name="usu135to142">{{Harvnb|臼井勝美|2000|pp=135-142}}</ref>。
 
== 第二次世界大戦(大東亜太平洋戦争下の中国戦線 ==
=== 日米交渉と太平洋戦争([[第二次世界大戦]](大東亜戦争) ===
{{Main|日米交渉}}
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕に戻ろうとして<!--4,000人が-->踏みつけられたり、窒息したりして死亡した市民(1941年6月5日、[[重慶トンネル虐殺事件|重慶防空壕窒息事件]])]]
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日華事変中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。
* 5月 - アメリカ、[[対中武器貸与法]]発動。
* 5月 - 日本軍、[[江北作戦]]。5月7日〜6月15日 - 北支那方面軍、[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]。5月〜8月末 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月、[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し、再検討を要請した<ref name="usu124to135"/>。
281 ⟶ 280行目:
* 12月〜翌年1月 - [[第二次長沙作戦]]。
 
;大東亜戦争(アジア太平洋戦争(大東亜戦争)開戦
* 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、[[マレー半島]]上陸、及び[[真珠湾攻撃]]。広東第23軍、[[香港]]攻略開始([[香港の戦い]])。こうして大東亜戦争(アジア[[太平洋戦争]]が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した<ref name="usu143to155"/>。12月9日 - 中華民国(重慶政府、蔣介石政権)、日独伊に宣戦布告<ref name="usu143to155"/>。
* [[12月12日]] - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「[[大東亜戦争]]」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蔣介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた<ref name="usu143to155"/>。
* [[12月25日]] - 日本軍、香港占領。
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{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2019年5月}}
;{{JPN1889}}
: [[満州国]]独立によって日中は安定し、東アジアの平和秩序が図られるとした(天羽声明)<ref name="usui10to12">{{Harvnb|臼井勝美|2000|pp=10-12}}</ref>。また、日華事変中戦争(支那事変)は明確な開戦決意でなく偶発的に開戦したため戦争目的を確立するまでに時間がかかった<ref name="tobe"/>。そのため、対英米蘭戦の[[大東亜戦争]](アジア日中戦争および[[太平洋戦争]])の際には開戦目的が明確化され、日本側の戦争目的は「自存自衛」と「(西洋帝国主義からの)アジア解放」を柱とした<ref name="tobe">[[戸部良一]]「[http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_04.pdf 日本の戦争指導—3つの視点から]」『戦争史研究国際フォーラム報告書第6回』防衛省,2008年{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。[[東亜新秩序]]・[[大東亜共栄圏]]の確立によってアジア解放は実現されると主張された<ref name="tobe"/>。日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都[[南京攻略戦|南京陥落]]後も、国民政府は首都を内陸部の[[重慶市|重慶]]に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長は[[ソビエト連邦]]への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使[[トラウトマン工作|トラウトマンによる和平工作]]も模索され、蔣介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が[[トラウトマン和平工作#1937年12月|和平条件]]の要求を過重なものにしたため、蔣介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、[[米内光政|米内海相]]などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた<ref>南京戦史資料集、[[偕行社]]、1989年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。近衛内閣は蔣介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蔣介石と対立する[[汪兆銘]]と講和することで問題解決を図ろうとした。{{要出典範囲|date=2015-06-22|その後、戦争終結のため[[援蔣ルート]]の遮断を狙い、[[ヴィシー政権]]のフランスと合意の上、[[フランス領インドシナ]]へと進駐したが、このことが[[東南アジア]]を植民地にしていたアメリカや[[イギリス]]、[[オランダ]]などを刺激することとなり、アメリカは[[経済制裁]]を発動し、[[大東亜戦争]](アジア太平洋戦争]]に至る}}。
; {{MCK}}
: {{要出典範囲|date=2015-06-22|日本への同調と自国存立のための戦争}}。ソビエト連邦と対峙する[[関東軍]]の後方支援に終始し、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|蔣介石中華民国政府]]とはほとんど交戦しなかった。
353 ⟶ 352行目:
: 日本との徹底抗戦を主張する蔣介石に対して、当時の日本の首相[[近衛文麿]]は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」「新興支那政権の成立発展を期待する」との近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その後、蔣介石に代わる新たな交渉相手として国民党No.2である[[汪兆銘]]による中国国民党政権を樹立させた。汪は蔣介石の[[督戦隊|督戦隊戦法]]や[[ゲリラ|ゲリラ戦術]]、[[清野戦術]]などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発と[[孫文]]による「日中戦うべからず」の遺訓から「一面抵抗、一面交渉」の基本姿勢のもと、反共・和平解決を掲げ、1938年に蔣介石の中華民国政府から離反した。汪は日本の力を背景として[[北京市|北平]]の[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]や[[南京市|南京]]の[[中華民国維新政府]]などを集結して、1940年に蔣介石とは別個の国民政府を設立したが、蔣介石の国民政府から汪兆銘に追随するものがいなかった上、北支・中支などの一部の軍閥を除き、中国各地を支配していた多くの諸軍閥に支持されず、国際的な承認も得られなかった<ref>[[伊香俊哉]]『満州事変から日中全面戦争へ』[[吉川弘文館]]、2007年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。主に共産党軍を相手に戦った。
; {{CHN1928}}([[蔣介石政権]])
: [[孫文]]死後、国内は再び分裂状態となり、国民党右派の中心人物である蔣介石率いる[[国民革命軍]]と影響力を強める中国国民党などの間で内戦が繰り広げられた。1927年(昭和2年)蔣は北伐で大敗し最大の危機を迎えると恩人である[[松井石根]]を通じ時の[[田中義一]]首相と会談し、[[蒙古]]・[[満洲]]問題を引き換えに日本から[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の援助を引き出し、[[張作霖]]を満洲に引き上げさせることに成功した。この際、[[張作霖]]が関東軍に謀殺され、[[張学良]]は国民党に合流。1932年(昭和7年)汪兆銘と蔣介石の見方が一致すると両者は協力して南京で国民政府を組織する。1933年(昭和8年)には日本との間で[[塘沽停戦協定]]が締結されると1935年(昭和10年)、[[広田弘毅]]外相が議会姿勢演説で「日中双方の不脅威・不侵略」を強調、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担すると発言。汪兆銘と蔣の指導する中華民国はこれを受け入れ、[[反日感情]]を戒め、日中和平路線が着々と進められたが、中国共産党などは一部はこれを喜ばず、1935年11月、国民党六中全国大会中に汪は[[カメラマン]]に扮した中国共産党の刺客から狙撃され負傷、療養のためヨーロッパへ渡航。1936年には日本に強い不信を持っていた[[張学良]]は[[西安事件]]を起こして蔣に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め[[中国国民党]]と中国共産党の間で[[第二次国共合作]]が成立した。蔣は当時[[華北|北支]]に駐屯していた日本軍との間で起きた[[盧溝橋事件]]を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の[[兵士]]や[[市民]]が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。[[郎坊事件]]、[[広安門事件]]などの[[紛争]]をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民革命軍の存亡をかけた徹底抗戦([[ゲリラ|ゲリラ戦]])が展開された。装備などの面で劣勢にあった国民革命軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処<ref>東中野修道「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」2006年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref> を組織し謀略をして国際世論を味方につけて[[アメリカ合衆国]]から支援([[援蔣ルート]]等)を引き出した。1941年(昭和16年)11月、アメリカ合衆国は日本に[[仏印進駐|仏印兵力]]の現状維持を含む暫定協定を提示する意向であったが、半ば見捨てられる形となった蔣は、英首相[[ウィンストン・チャーチル]]のコネクションを通じて抗議した<ref group="注釈">当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた</ref>。これが一因となり暫定協定は撤回され、[[ハル・ノート|ハル・ノートが通告]]され、大東亜戦争(アジア[[太平洋戦争]]に至る<ref>ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』1巻 暁のZ作戦「五部 運命のハルノート 3 アメリカの『暫定協定』」{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
;[[ファイル:中國工農紅軍軍旗.svg|25px]] [[中国共産党]]([[八路軍]]、[[新四軍]])
:蔣介石国民党政府以前の1932年に[[中華ソビエト共和国]]として日本に[[宣戦布告]]を行ったが、当時は主権国家としての規模はなく、また日本よりも前に国民党を打倒しなければならないとしていた<ref>石川「革命とナショナリズム」岩波新書p125</ref>。国民党とは[[国共内戦]]を戦っていたが[[第二次国共合作]]によって共産党支配地区はソビエト(蘇維埃)区から辺区へと改名し、共産党軍は労農(工農)[[紅軍]]から国民党[[八路軍]]、新四軍として蔣介石政権とともに抗日戦争、日本帝国主義と戦うとした。
; {{USA1912}}
: 日華事変勃発中戦争開戦当初は[[アジア]]で膨張を続ける日本に対する牽制を狙い、[[援蔣ルート]]を通じて[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]]に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)を提供。アメリカ合衆国議会は戦争状態にある国への武器輸出を禁じる[[中立法]]を維持していたが、日華事変中戦争の勃発により、[[ルーズベルト]]大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可した。日本も石油をアメリカに大きく依存しており日中共に米国に依存しなければ戦争継続は困難であった。その後、[[仏印進駐]]を機に対日石油輸出を停止し、[[ABCD包囲網]]、[[ハル・ノート|ハル・ノートが通告]]を経て[[真珠湾攻撃]]によって大東亜戦争(アジア[[太平洋戦争]]が勃発すると本格的に日本と戦争関係となる。
; {{SSR1923}}
: 公式にソ連軍が参戦するのは大東亜戦争(アジア[[太平洋戦争]]末期の1945年8月8日だが、すでに1920年代より中国で共産勢力を拡大するため[[紅軍]]ら共産主義勢力にたいして長期間にわたり支援を行い、また国共合作が成立してからは対日戦線を全面的に支援、[[張鼓峰事件]]や[[ノモンハン事件]]では[[関東軍]]と交戦している。なお、日本は[[日ソ中立条約]]を締結していたソ連を通じ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との講和を目指したが、[[ソ連対日参戦]]により破綻した。
; {{DEU1935}}
: [[第一次世界大戦]]の際に日本が[[東アジア]]・[[太平洋]]地域におけるドイツの権益を奪取したという事実と[[プロイセン]]([[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]])時代の[[黄禍論]]主義思想が対日政策に影響を及ぼしていた。[[1935年]]より[[中華民国]]に対して{{仮リンク|在華ドイツ軍事顧問団|zh|德國軍事顧問團|label=在華ドイツ軍事顧問団}}を派遣し陣地構築の指導、軍事訓練や武器の輸出を行った([[中独合作#国民革命軍の近代化とドイツ|中独合作]])。一方、[[1936年]]には[[日独防共協定]]を締結するなど、日本にも接近しつつあった。1937年に勃発した[[第2次上海事変]]の際には、ヒトラー承認済のもと<ref>「日本との協調関係は維持する。しかし武器などの中国への輸出も偽装できる限り続ける」[https://wwwwww6.nhk.or.jp/special/detail/20060813index.html?aid=20060813 NHKスペシャル 日中戦争〜なぜ戦争は拡大したのか〜(2006年8月13日放送より])</ref>、蔣介石の[[軍事顧問]]を務めた[[ファルケンハウゼン]]が直接作戦指導にあたっている。日中間の和平交渉を仲介(トラウトマン工作)するが、交渉は決裂。軍事顧問団を引き上げることになる。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。
; {{GBR}}
: 基本的にアメリカ寄りの政策を取ったが日本側の要請で援蒋ルートを一時閉鎖する<ref name="usu124to135"/> などの独自路線も取った。
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:華北の共産党勢力下における治安戦において徹底的な掃討作戦を実施したと言われる。
; 参加部隊
:::[[支那駐屯軍]]([[盧溝橋事件]]後の1937年7月11日に[[関東軍]]独立混成第11旅団・[[独立混成第1旅団]]の二個[[旅団]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]][[第20師団 (日本軍)|第20師団]]が編入<ref name="usu65to72"/>。1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、[[北支那方面軍]][[第1軍 (日本軍)#日中戦争における第1軍|第1軍]]・[[第2軍 (日本軍)#日中戦争における第2軍|第2軍]]へ編成。
::日本陸軍
:::[[上海海軍特別陸戦隊]]
:::[[支那駐屯軍]]([[盧溝橋事件]]後の1937年7月11日に[[関東軍]]独立混成第11旅団・[[独立混成第1旅団]]の二個[[旅団]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]][[第20師団 (日本軍)|第20師団]]が編入<ref name="usu65to72"/>。1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、[[北支那方面軍]][[第1軍 (日本軍)#日中戦争における第1軍|第1軍]]・[[第2軍 (日本軍)#日中戦争における第2軍|第2軍]]へ編成。
::日本海軍
:::[[上海海軍特別陸戦隊]]
 
中国国民革命軍・中国共産党軍軍装・装備・兵力
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:: [[国民革命軍戦闘序列 (1944年)]]
:中国住民の徴発
華事変中戦争期間中に[[国民政府]]が[[徴発]]した兵士の総数は約1405万人である。[[動員]]を可能にすべく[[1936年]]から開始された[[徴兵制度|義務兵役制度]]は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は[[徴兵]]であるが、実際は[[募兵]]と[[拉致]]であったとされる<ref name="sasa"/>。[[拉致被害者]]で目立つのは、他地域の住民や旅行中の[[行商人]]、[[糧食]]などの[[運搬労働者]]であり、[[博徒]]や[[乞食]]なども含まれていた<ref name="sasa">[[笹川裕史]]「糧食・兵士の戦時徴発と農村の社会変容」[[石島紀之]]・[[久保亨]]『重慶国民政府史の研究』[[東京大学出版会]]、2004年 413026124X {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
;[[皇協軍]]
; 軍装・装備
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|}
 
上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国[[国民革命軍]]のみの数であり、{{要出典範囲|date=2019年4月|必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。}}当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蔣介石国民革命軍・共産党軍(現:[[中国人民解放軍]]の前身)・その他[[馬賊]]や[[抗日]]武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日華事変中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業や商業、工業、運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘や[[ゲリラ|ゲリラ戦]]に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に[[食糧]]を[[徴発]]されたことや[[焦土作戦]]の影響で[[飢餓]]に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。([[中国空軍の上海爆撃 (1937年)]]を参照)。
{{ns:0|1=<nowiki>日本軍による[[燼滅作戦|三光政策]]や[[南京事件 (1937年)|南京事件]]などにより、中国の住民に多くの犠牲者が出たといわれる<ref>「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』[[山川出版社]](2009)pp.246-247(事件や政策の呼称は出典に依る)</ref>。一方、これらは中国側のプロパガンダであり事実ではないする見方もある<ref>{{cite news|title=高校教科書検定 倭寇まで「侵略」表記 南京「30万虐殺」なお|newspaper=産経新聞|date=2003-04-09|author=教科書問題取材班}}</ref><ref>[[藤岡信勝]]『教科書採択の真相: かくして歴史は歪められる』 [[PHP研究所]]、2005年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><ref>[[小林よしのり]]『[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論]]』 [[幻冬舎]] {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><!-- 1998年? ---><ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『反日教育を煽る中国の大罪―日本よ、これだけは中国に謝罪させよ!』 [[日本文芸社]]、2004年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。<!--[[Wikipedia:信頼できる情報源]]:「[[K-12]]水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです--></nowiki>}}
以下、各犠牲者数について注釈する。
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==国共内戦==
{{main|国共内戦}}
[[大東亜太平洋戦争]](アジア太平洋および日中戦争の終結前後に、蔣介石率いる中国[[国民革命軍]]と毛沢東率いる中国共産党軍の間で[[国共内戦]]の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは[[上党戦役]]など内戦がはじまった。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、[[1946年]][[6月]]に、蔣介石率いる[[国民革命軍]]が全面侵攻命令を発した。[[1949年]]から[[1950年]]にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蔣介石らは台湾へ逃れ、[[中華人民共和国]]が成立した。
 
==残留日本兵と残留日本人==
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また同月に[[報知新聞]]も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した<ref>報知新聞 1937.12.25-1937.12.27(昭和12)「事変下本年の回顧 (7)」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 政治(58-142)</ref>。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた<ref>報知新聞 1937.12.19-1937.12.22(昭和12)事変下本年の回顧 (1)外交 (A〜D)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(147-057)</ref>。
 
[[田母神俊雄]](当時[[航空幕僚長]])は、日本は[[国際法]]上合法的に[[中国大陸]]に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、[[コミンテルン]]の工作によって蔣介石の国民党や中国共産党からの度重なる[[テロ]]行為に干渉され、また[[ベノナ]]ファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日華事変中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた<ref>[http://ronbun.apa.co.jp/images/pdf/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf 日本は侵略国家であったのか][[「真の近現代史観」懸賞論文]],2008年.[[アパグループ]].</ref>。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は[[浜田靖一]][[防衛大臣]]から[[更迭]]された([[田母神論文問題]])<ref>毎日新聞 2008年11月9日 東京朝刊</ref>。[[小堀桂一郎]]、[[中西輝政]]、[[西尾幹二]]などは田母神論文の内容を支持し<ref>『WiLL』2008年11月号{{Full citation needed|date=2019年4月}}</ref>、[[森本敏]]、[[小林節]]、[[纐纈厚]]、[[笠原十九司]]、[[水島朝穂]]らは論文を批判した<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html |title=『小学校から勉強を』 「低レベル」論文内容 識者らあきれ顔 |publisher=東京新聞 |accessdate=2008-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081103092507/https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html |archivedate=2008-11-03 |deadlinkdate=2019-06-14 }}</ref><ref>[https://ironna.jp/article/3138 田母神論文の意味するところ - iRONNA]</ref>。
 
{{誰範囲2|date=2019年9月21日 (土) 07:31 (UTC)|また、「盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いなく、一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである<ref>[[古川隆久]]・[[鈴木淳 (歴史学者)|鈴木淳]]・[[劉傑]]『[[第百一師団長日誌]]』中央公論新社、2007年、P6</ref>}}」とする評価もある。
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* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/pdfs/kaisetsu.pdf 「特別展示 日中戦争と日本外交 〈展示史料解説〉] (外務省)
* {{Kotobank}}
 
{{日中戦争}}
{{大日本帝国}}