「田中舘愛橘」の版間の差分
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* 愛橘は東京帝国大学で実施された運動会の計測を担っていた。明治35年([[1902年]])11月8日の運動会からは、愛橘と[[田丸節郎]]により考案された大掛かりな電気計測によりタイムが計測された。その内容はコース全体に電線を巡らせて計測器に掛けた2本のテープを同じ速度で進行するようにしておき、テープの1本には時間の長さを視認できるようにして、もう一方にはスタート合図のピストルとゴールに入った瞬間に電線の電流が切断された記録を残した。これらを照らし合わせて100分の1秒までの所要時間を計測した。この運動会では[[藤井實]]がこの計測により100メートル競走で10秒24、明治37年([[1904年]])11月12日に行われた運動会では同じく藤井が200メートル競走で25秒74という驚異的な記録を打ち出した。これらの記録は明治39年([[1906年]])に[[濱尾新]]総長により愛橘の証明文を添えてアメリカの主要な大学へ通知されたが、計測の誤りであったとみられており、公認とはならなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=土屋知子 |title=夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究 |issue=大手前大学 博士論文(学術)、 甲第6号 |year=2012 |naid=500000568412 |url=http://id.nii.ac.jp/1160/00000484/ |accessdate=2022-02-20}}</ref><ref>{{Citation|contribution=ふじいみのる【藤井実】|contribution-url=https://archive.is/c2Ezn#50%|title=世界大百科事典|edition=2|publisher=[[平凡社]]}}</ref>。
* 1910年頃のこと、ドイツに留学経験のある[[寺田寅彦]]がとある会議での愛橘のドイツ語の発言について意見を述べたことが有った。寺田は「舘先生、勢いは宜しいのですが、少々乱暴なドイツ語ではありませんか」と告げた。これに対して愛橘は「聞かれた相手に直ちに答えようと思ったら、テニヲハなどにかまっておられるか。今やらなければ殺されると思え」と答えたという。後に寺田は「舘先生はいつも日本を背負って、死ぬ気でやってらっしゃるのだ」と振り返った<ref name=ninohe207/>。
* 大正11年([[1922年]])、[[改造社]]の[[山本実彦]]の招聘により、[[アルベルト・アインシュタイン]]が来日する。東京帝国大学理学部物理学教室では無料の特別講義が開かれ、アインシュタインは[[相対性理論]]を講じた。愛橘は6回の講義全てに出席した
* 愛橘は古くから軍部と関係を持ち、また、貴族院議員となる前からも政治的な行動が多かった<ref name=Fukai1,2>[[#深井|深井(2002年)]]1、2頁</ref>。教え子の[[長岡半太郎]]は愛橘とは逆に軍部と政治を嫌っており、これらの事から長岡は愛橘を批判することが何度かあったという<ref name=Fukai1,2/>。愛橘は昭和19年2月7日の第84回貴族院本会議において、「マッチ箱ぐらいの[[原子爆弾]]は東京全体を焼き払うことができる」と発言し、原爆待望論を展開した<ref name=Fukai2>[[#深井|深井(2002年)]]2頁</ref><ref name=Fukai15>[[#深井|深井(2002年)]]15頁</ref>。同じく貴族院議員であった長岡はこの愛橘の発言を聞き、[[原子力]]研究の専門家ではない愛橘が原爆を喧伝する行為に不信感を覚え、原爆開発が不可能であることを論文に提示した<ref name=Fukai15/>。
* 愛橘の[[文化勲章]]受章は弟子や孫弟子の4人が同章を既に受章しており、愛橘が受章していないのは申し訳ないと弟子たちからの推薦による受章であった<ref name=ninohe241/>。
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