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== 来歴 ==
[[1947年]]、[[越後憲]]や[[杉葉子]]らと[[東宝ニューフェイス]]第2期に合格{{R|全史530|特撮女優47}}。芸能界入りからしばらくは、[[三越]]のファッションショーにモデルとしてたびたび出演した<ref name=" 「脇役稼業」20221105 ">週刊現代2022年11月5日号「脇役稼業」第19回塩沢とき「ぶっとんだ女(ひと)」p25-32</ref>。[[1950年]]に[[端役]]で『[[女三四郎]]』で映画初出演。以降、1950年代の東宝作品に出演し、デビューからしばらくは本名の'''塩沢登代路'''で活動した<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
[[1958年]]、[[舌癌]]を病み、手術の際に総[[義歯|入れ歯]]となったが、幸運にも担当医が舌癌の最新療法(当時)を学んでいたことで、寛解する<ref name=" ゲンダイ20130402その2 ">{{Cite web |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/141817/2 |title=乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その2) |publisher=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2013-04-02 |accessdate=2021-11-07}}</ref>。ただし、この舌癌については[[1981年]]頃まで公表しなかった(後述)。
[[1961年]]の映画『[[アワモリ君売出す]]』にコミカルな講師役{{efn|女性らしい女性をつくる学校の設定で、生徒たちは美しい立ち振る舞いや男を悩殺するウインクの仕方なども学ぶ。}}で出演したことが転機となった{{efn|また、[[永六輔]]は同役の演技を絶賛し、後日彼女に自作のドラマへの出演依頼をしたという<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。}}。その演技から本人に「明るく健康なイメージ」がつき、コミカルな役が増えるきっかけとなった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
[[1969年]]に放送開始された『[[ケンちゃんシリーズ]]』
[[1972年]]、ドラマ『[[愛の戦士レインボーマン]]』の魔女・イグアナ役の怪演で演技の幅を広げ、より一層個性的な女優となる<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。[[1973年]]には、『[[へんしん!ポンポコ玉]]』で覗き見が趣味の隣の奥さん・鵜之目タカ子役を演じる。[[1976年]]、『[[円盤戦争バンキッド]]』では家のアンテナの異変をいつも目撃して大騒ぎする宇崎家の婿養子・博彦(演:[[柳生博]])の妻役を演じた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
[[1981年]]、『[[徹子の部屋]]』で、30歳の折の癌と総入れ歯のエピソードを初[[告白]]、その後、自らの癌体験を本にして出版する。また、このときに過去の[[恋愛]]
[[1972年]]、『[[愛の戦士レインボーマン]]』の魔女・イグアナ役を演じる。この役では、近しい人たちから「汚れ役ではないか」と意見されたが、まったく心外で「女親分のイメージでこれを演じ、現実離れした魔女のキャラクターでストレスを発散させ、大いに楽しんだ」と後に語っている{{要出典|date=2021年11月}}。「メイクも衣装も全て自分で考えた」と『[[テレビ探偵団]]』でコメントしていた{{出典無効|title=TVWATCH|date=2021年11月}}{{efn|ドラマ終盤には再登板の依頼があったが、スケジュールが合わず実現しなかった。}}。▼
[[1984年]]、『[[ライオンのいただきます]]』(以下、『いただきます』)にゲスト出演。派手なメガネと大きく結った独特のヘアスタイルに加え、その上品な口調でざっくばらんに下ネタを連発するトークがウケて出演を重ね、老若男女から一躍人気を得た<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。また同時期に放送された[[月曜ドラマランド]]』などでは、お金持ちの奥様役や[[かかあ天下|カカア天下]]の上司夫人役を多く演じた。
[[1985年]](昭和60年)、57歳。右[[乳癌]]を患い入院、手術。その後はマイペースにドラマ、映画、[[舞台]]、などの仕事をこなしていく。また、上記により世間を楽しませたことから、同年に「[[ゆうもあ大賞]]」を受賞{{efn|この年の受賞者は、他にアナウンサー・[[生方恵一]]、日本テレビディレクター(当時)の[[佐藤孝吉]]<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。}}。
[[1999年]](平成11年)、71歳。今度は[[骨粗鬆症]]を患うが、5年間の闘病生活を送る<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>なか、その間も杖を使いながら少しずつドラマなどの仕事をこなす。▼
▲[[1981年]]、『[[徹子の部屋]]』で、30歳の折の癌と総入れ歯のエピソードを初[[告白]]、その後、自らの癌体験を本にして出版する。また、このときに過去の[[恋愛]]を披露し、さらには「男性のものを頂く」という間接的表現で[[精飲]]など情熱的な[[性行為]]を告白した。のちに『[[ライオンのいただきます]]』に出演した際、視聴者からの「彼の精液がどうしても飲めないんです」という相談に対して、「私なんか(今迄に)一[[升]]ぐらい飲みましたわよ」と発言したこともあった{{出典無効|title=TVWATCH|date=2021年11月}}。
[[2004年]](平成16年)、76歳。新薬の効果で骨粗鬆症を無事[[治癒|完治]]したのもつかの間、左胸に違和感があり、9月に受けた前回の執刀医による診察で、乳癌であることが判明。ごく初期だったため、乳房を残す方法も検討されたが「ありったけ取ってください」と全摘出。手術は無事成功し、回復後元気に仕事をこなす。▼
[[2005年]]、乳がんの手術のためにテレビ出演はできなかった。最後のテレビ出演は2005年5月12日放送された『徹子の部屋』だった。▼
[[2007年]][[5月17日]]、[[スキルス#スキルス胃癌|スキルス性胃癌]]のため東京都[[目黒区]]の[[病院]]で[[死去]]。{{没年齢|1928|4|1|2007|5|17}}。舌癌・左右両方の乳癌と3回もの癌の罹病を克服し、「癌は治る」と元気に話していた最中の死去であった。▼
生前、両親の生まれ故郷である[[長野県]][[飯田市]]内に自身の墓を建てており、死後はそこに埋葬された<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。墓には本名ではなく芸名の「塩沢とき」が刻まれ、墓石の隣には「とき観音」が建てられた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
▲[[1999年]](平成11年)、71歳。今度は[[骨粗鬆症]]を患うが、5年間の闘病生活を送るなか、その間も杖を使いながら少しずつドラマなどの仕事をこなす。
== エピソード ==
▲[[2004年]](平成16年)、76歳。新薬の効果で骨粗鬆症を無事[[治癒|完治]]したのもつかの間、左胸に違和感があり、9月に受けた前回の執刀医による診察で、乳癌であることが判明。ごく初期だったため、乳房を残す方法も検討されたが「ありったけ取ってください」と全摘出。手術は無事成功し、回復後元気に仕事をこなす。
=== 20代の頃の恋愛と舌がん ===
1950年に清楚な女優として映画デビューしたが、あまりパッとせず中々芽が出なかった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。本人はその理由を「まだ処女で色気がないからだ」と考え、当時たまたま知り合った23歳年上の会社社長に抱かれることを決めたという<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。その男性が他の女性と付き合っていることを知りつつ、密かに彼と7年ほど付き合い、その間4回も彼との子を中絶した<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
会社社長と別れ、30歳を迎えた1958年に突如舌がんを診断され、治療したが周りにはこのことをひた隠しにした。その後1981年に出演した『徹子の部屋』でがん体験を公に初告白し、同時に上記の恋愛についても赤裸々に語った<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。後日、本人は「プライベートを話したことで、長年の憑き物が落ちたようだ」と言ったという<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
▲[[2005年]]、乳がんの手術のためにテレビ出演はできなかった。最後のテレビ出演は2005年5月12日放送された『徹子の部屋』だった。
=== 女優として ===
▲[[2007年]][[5月17日]]、[[スキルス#スキルス胃癌|スキルス性胃癌]]のため東京都[[目黒区]]の[[病院]]で[[死去]]。{{没年齢|1928|4|1|2007|5|17}}。舌癌・左右両方の乳癌と3回もの癌の罹病を克服し、「癌は治る」と元気に話していた最中の死去であった。
『ケンちゃんシリーズ』で主演を演じた元子役・宮脇康之(現:[[宮脇健]])からは後年、「短い場面の出演でも存在感があり、いつも印象に残る演技をされる方でした」と評されている<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。また宮脇は、「視聴者には“アクの強いおばさん”のイメージが強いかもしれませんが、普段の塩沢さんはおとなしく声のトーンも穏やかでした。芝居とプライベートのギャップこそ塩沢さんの魅力でした」とも語っている<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
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生前、「(半生を踏まえて)自分の境遇が充実して幸せに生きていたら、楽しくて明るい演技はできない」というのが口癖だった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。その後還暦を迎えた頃の自著で、以下のように語っている。「私も女優となった以上、そりゃスターになりたかった。なにしろこれだけ女優生活が長くても主役ってただの一度もないのだから」<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>(ただし実際には、1954年の映画『うれし恥かし看板娘』で主役を演じている)。
=== バラエティ番組でのブレイク ===
1984年のバラエティ番組『[[ライオンのいただきます|いただきます]]』の出演に際し、自宅の洋服ダンスから一番派手な服を選び、美容院で当時の[[デヴィ・スカルノ|デヴィ夫人]]を意識した髪型にしてもらった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。この髪型は当初地毛による控えめなものだったが、同番組の出演を追うごとに徐々に大きくした<ref name=" ゲンダイ20130402その1 ">{{Cite web |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/141817 |title=乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その1) |publisher=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2013-04-02 |accessdate=2021-11-07}}</ref>。その後髪の毛の下に特注の発泡スチロールを詰め込み、キノコのような独特の左右に張り出した巨大な髪型(かつら)になった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。最終的にセットに約2時間、元に戻すのに30分かかる大きさとなった<ref name=" ゲンダイ20130402その1 "/>。
同番組ではこの奇抜な出で立ちに加え、「身のシタ相談」に寄せられる視聴者からのハガキに上品な口調で下ネタ(セックス談義)を連発するキャラクターで一躍大人気となった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/><ref name=" ゲンダイ20130402その1 "/>。ある日の視聴者からの「彼の精液がどうしても飲めないんです」という相談に対して、「私なんか(今迄に)一[[升]]ぐらい飲みましたわよ」と発言したこともあった{{出典無効|title=TVWATCH|date=2021年11月}}。またこのブレイク以降、週刊誌のインタビュー記事でも「女性はスケベでなくちゃいけませんね」、「恋愛では、多い時はお相手が15人もいました」など、性について奔放な発言をした<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
=== 右胸の乳がん発覚 ===
ブレイク中の1985年7月23日、いつものように肌にローションを塗っていた所、右乳房にしこりを発見。2日後国立がんセンターで検査を受けると、右胸の乳がんと診断された<ref name=" ゲンダイ20130402その2 "/>。舌がんの経験によりがんに対して敏感だったことから、右乳房の乳がんも比較的早期発見となった<ref name=" ゲンダイ20130402その2 "/>。
元マネジャーの松野行秀(現:[[ゴージャス松野]])によると、がんの摘出手術から目を覚ますと病室にあったテレビから偶然、[[日本航空123便墜落事故]]現場のニュースが流れていた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。先の舌がんを含めて大病した塩沢は、この事故映像を見て「自分もいつまで生きられるか分からない。だったら自分の思い通りに生きよう」と決意<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。以降仕事の時は、できるだけ周りの人の印象に残るように振る舞うようになったという<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
同年8月12日に右乳房を切除する手術を受けて24日に退院し、9月16日の『いただきます』の出演から仕事復帰した{{efn|その放送では、「片パイ」のイラストを掲げて、手術当日に起きた日航機墜落事故に触れ、「私なんかオッパイが一つなくなっただけで(大変な墜落事故に比べたら)何でもない」と語った<ref name=" ゲンダイ20130402その2 "/>。}}。後年左胸の乳がんが判明して全摘出した際は、「オッパイを残すとか残さないとか色々言っても、それを言えるうちが花。生き延びるためならオッパイと命は、天秤にかけられないでしょう」と発言した<ref name=" ゲンダイ20130402その2 "/>。
== 人物 ==
塩沢が生まれた頃、父親は[[伊那電気鉄道|伊那電鉄]](現・JR[[飯田線]])に勤めていた。塩沢の本名の登代路(とよじ)は、伊那電鉄が当時開発していた豊橋('''とよ'''はし)駅〜川路(かわ'''じ''')駅にちなみ、名付けられた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
[[趣味]]は食べ歩き。好物はヒレステーキ。
癌による乳房切除までは[[巨乳]]の芸能人として有名だった。ちなみに右胸の乳がんの手術後である翌[[1986年]]、患者役でゲスト出演した『[[今夜は最高!]]』では、医者に扮した[[タモリ]]を驚かそうと無傷の左胸を突然ポロリと披露した{{efn|本人曰く「(左胸も乳がんになる可能性を見越して)こういうことができなくなる前に記念にやっておきたかった」とのこと<ref name=" ゲンダイ20130402その3 ">{{Cite web |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/141817/3 |title=乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その3) |publisher=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2013-04-02 |accessdate=2021-11-07}}</ref>。}}<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
先述の独特な髪型である巨大なかつらのうち、1つは[[末成由美]]に進呈した。
モットーは「がんと共生する」<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。普段の生活では「気配りをしすぎず、ストレスを溜めないことが肝要」との考えを持っていた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
世田谷の家賃5万円ほどの借家に生涯住み続け、『いただきます』のブレイク後も生活は質素なものだった。在宅時も外の世界を遮断するように雨戸を閉めて過ごし、自分の世界にこもるように暮らしていた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。また、仕事の時は明るくあけすけな言動をしていたが、普段は神経質な所もあり、眠る時はアイマスクと耳栓を欠かさなかった<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。生涯結婚することなく独身を通していた<ref name=" 「脇役稼業」20221105 "/>。
[[平田昭彦]]に「憧れの情を持っていた」とインタビューで述べていた{{要出典|date=2021年11月}}。小学校の同級生で、同じ東宝に所属し、多くの作品で共演していた。
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* [[ガス人間第一号]](1960年、東宝) - 里代{{R|全史530}}
* [[暗黒街の弾痕 (1961年の映画)|暗黒街の弾痕]](1961年、東宝) - 飲み屋のおかみ
* [[アワモリ君売出す]](1961年、東宝) - 「立花チャームスクール」の講師
* [[どぶろくの辰 (1962年の映画)|どぶろくの辰]](1962年、東宝)
* [[イチかバチか (映画)|イチかバチか]] (1963年)
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