削除された内容 追加された内容
m 内容追加
m 内容追加
タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
21行目:
| 職業 = 元[[俳優]]、元[[歌舞伎役者]]、元[[女形]]
| ジャンル = [[歌舞伎]]、[[剣劇]]、[[劇映画]]([[時代劇]]、[[剣戟映画]]、[[サイレント映画]]、[[トーキー]])
| 活動期間 = 19011900年 - 1943年
| 活動内容 =
| 配偶者 = 有
| 著名な家族 = [[尾上華丈]](実弟)<br />[[尾上松葉]](実弟)<br />[[片岡栄二郎]](甥)
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
46行目:
| 備考 =
}}
'''片岡 松燕'''(かたおか しょうえん、[[1895年]][[2月15日]] - [[1943年]][[6月10日]])は、[[日本の男優一覧|日本の俳優]]、元[[歌舞伎役者]]、元[[女形]]である。本名は'''加藤 一'''(かとう はじめ)<ref name="松燕">『日本映画俳優全集・男優編』([[キネマ旬報|キネマ旬報社]]、1979年)の「片岡松燕」の項(p.144)を参照。同項執筆は[[田中純一郎]]。</ref>。[[片岡仁左衛門 (12代目)|片岡我童]]門下の[[歌舞伎役者]]の子役としてキャリア開始経て映画界に転向青年期は実弟・[[女形尾上華丈]]、[[尾上松葉]]らして、舞台共に[[日活京都撮影所]]そして独立後の[[片岡松燕プロダクション]]のサイレント映画]]に出演した。やがて[[俳優|優]]の時代が到来して美青年役が増え独立して女形ならびに二枚目スターとしての主演作を製作し知られた。
 
== 来歴・人物 ==
[[1895年]](明治28年)[[2月15日]]、[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれる。実父は舞台の[[床山]]を職としていた。また、実弟に映画俳優[[尾上華丈]](本名嶋田喜一郎、1898年 - 1969年)、[[尾上松葉]](本名加藤清、1909年 - 没年不詳)、甥に[[片岡栄二郎]](本名嶋田助一郎、1918年 - 1983年)がいる。
[[1895年]](明治28年)[[2月15日]]、舞台の[[床山]]を職とする父のもと[[神戸市]]に生まれる。3歳下の弟は俳優の[[尾上華丈]]である<ref name="華丈">『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「尾上華丈」の項(p.129)を参照。同項執筆は[[奥田久司]]。</ref>が、まったく対照的な顔立ちである。6歳で歌舞伎俳優の[[中村福圓]]に入門、神戸で初舞台を踏む。同一座で巡業をつづけ、のちに女形の[[片岡仁左衛門 (12代目)|片岡我童]]に入門、[[1917年]](大正6年)11月、大阪「[[中座]]」での[[片岡仁左衛門 (11代目)|片岡仁左衛門]]記念興行にあたって、「片岡松燕」を襲名した<ref name="松燕" />。
 
1900年(明治33年)、満5歳の時に歌舞伎役者[[中村福圓]]の門下となり、神戸市にあった大黒座(後の[[八千代劇場]]、現存せず)で[[實川正朝]]、[[市川團蔵 (7代目)|七代目市川團蔵]]らと共演し、初舞台を踏む。以後、同一座と共に各地巡業を続けたが、1915年(大正4年)に歌舞伎の名女形[[片岡仁左衛門 (12代目)|四代目片岡我童]]の門下となり、1917年(大正6年)11月に現在の[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]にあった[[中座]]で行われた片岡仁左衛門記念興行にあたり、'''片岡松燕'''を襲名した<ref name="松燕" />。
[[1920年]](大正9年)、[[尾上松之助]]の紹介で[[日活撮影所|日活京都撮影所]]に女形役者として入社する<ref name="松燕" />。26歳になるころ、翌[[1921年]](大正10年)[[2月1日]]に公開された松之助主演の[[牧野省三]]監督作品『[[自来也|豪傑児雷也]]』では「高砂勇美之助」という美青年の役、翌月公開のおなじく松之助主演・牧野監督の大作『[[忠臣蔵|実録忠臣蔵]]』では「[[大石良金|大石主税]]」の役で出演している。もちろんまだ女優の時代は到来しておらず、同年6月の松之助・牧野の『[[仮名手本忠臣蔵]]』では、松燕は女形として「[[瑤泉院|顔世御前]]」を演じている。
 
1920年(大正9年)、満25歳の時に[[尾上松之助]]の紹介により[[日活京都撮影所]]に入社<ref name="松燕" />。同年9月19日に公開されたサイレント映画『[[尾張三郎丸 前篇]]』で映画デビューを果たす。以後、[[片岡長正]]、[[中村歌枝]]らと共に同所の女形俳優として活動するが、翌1921年(大正10年)2月1日に公開された[[牧野省三]]監督映画『[[豪傑児雷也]]』では美青年・高砂勇美之助を演じ、また、同年3月10日に公開された牧野省三監督映画『[[忠臣蔵|実録忠臣蔵]]』では[[大石良金|大石主税]]を演じるなど、他の女形専門の俳優とは異なり、美青年役・立役として出演することもしばしばあった。その後、1923年(大正12年)9月1日に[[関東大震災]]が発生し、やがて松之助映画にも本格的に[[女優]]が採用されるようになると、松燕は正式に男優に転向、1925年(大正14年)5月31日に公開された[[池田富保]]監督映画『[[落花の舞 前篇]]』や、同年8月31日に公開された[[高橋寿康]]監督映画『[[鞍馬天狗 前篇]]』などに出演し、気品のある美しい二枚目俳優として活躍した。
[[1926年]](大正15年)前半、31歳になり、で70本以上に出演した同撮影所を退社、かつて新宿百人町にスタジオをもった[[M・パテー商会]]、のちに[[日活]]に統合されてから[[1915年]](大正4年)に[[M・カシー商会]]を設立していた[[梅屋庄吉]]の支援を得て、「[[片岡松燕プロダクション]]」を設立した。松燕が女形として主演した設立第1作『大望』は大正最末期の同年[[12月10日]]に公開された。[[1927年]](昭和2年)いっぱいまでで8本のサイレント映画の主演作に、女形としても男優としても出演した。その後は舞台に戻った<ref name="松燕" />。
 
1926年(大正15年)6月、会社の了解を得て日活を円満退社。退社後、かつて[[東京府]][[豊多摩郡]][[大久保百人町]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[百人町]])に映画撮影所を設けていた[[M・パテー商会]]、後に[[日活]]に統合されてから1915年(大正4年)に[[M・カシー商会]]を立ち上げた[[梅屋庄吉]]の支援を得て、[[片岡松燕プロダクション]]を設立する。大正時代最末期である同年12月10日、独立第一回作品となる[[高浜順]]監督映画『[[大望 (1926年の映画)|大望]]』を発表。以後、翌1927年(昭和2年)までに全10本のサイレント映画を製作、松燕自身も女形兼男優として主演を務めたのち、同プロは間もなく解散。解散後は実演に転向、現在の[[東京都]][[台東区]]にあった[[宮戸座]]などに出演したが、この間も1937年(昭和12年)12月21日に公開された[[稲垣浩]]監督映画『[[飛竜の剣]]』を始め、同年12月31日に公開された[[マキノ正博]]監督映画『[[血煙高田の馬場]]』、翌1938年(昭和13年)3月1日に公開された[[辻吉郎]]監督映画『[[加賀百万石 (映画)|加賀百万石]]』と、日活京都撮影所製作の[[トーキー]]に特別出演した記録がある<ref name="松燕" />。
[[1937年]](昭和2年)の暮れの[[トーキー]]の時代、42歳の松燕は、日活京都撮影所が製作した[[稲垣浩]]監督の[[阪東妻三郎]]主演作『飛竜の剣』に「[[徳川綱吉|将軍綱吉]]」役で出演、[[12月21日]]に公開され、翌週[[12月31日]]公開の[[マキノ雅弘|マキノ正博]]監督(「共同監督稲垣浩」は名義のみ)、おなじく阪東の主演作『[[血煙高田の馬場]]』では「[[松平輝貞|松平右京大夫]]」を演じた。それ以降の映画出演の記録はみられない。舞台に戻ったとされる<ref name="松燕" />。
 
[[1943年]](昭和18年)[[6月10日]]、死去した48歳没。
 
== おもなフィルモグラフィ ==