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[[1895年]](明治28年)[[2月15日]]、[[兵庫県]][[神戸市]]に生まれる、とされている<ref name="profile" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。『現代俳優名鑑』([[揚幕社]])など一部の資料によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は[[大阪府]][[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]][[高津町 (大阪府)|高津町]]九番丁(現在の同市同区[[道頓堀]]1丁目、[[高津 (大阪市)|高津]]2・3丁目、[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]1・2丁目の各一部)である旨が記されている<ref name="meikan" />。実父は歌舞伎など舞台の[[床山]]を職としていた。また、実弟は映画俳優[[尾上華丈]](本名嶋田喜一郎、1898年 - 1969年)で、甥も同じく映画俳優[[片岡栄二郎]](本名嶋田助一郎、1918年 - 1983年)であった。
 
1900年(明治33年)、満5歳の時に歌舞伎役者[[初代中村福圓]]の門下となり、兵庫県神戸市にあった大黒座(後の[[八千代劇場]]、現存せず)での公演『[[佐倉宗吾]]』で[[實川正朝]]、[[市川團蔵 (7代目)|七代目市川團蔵]]と共演、初舞台を踏む<ref name="profile" /><ref name="meikan" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。以後、同一座初世福圓と共に各地巡業を続けたが、1915年(大正4年)に歌舞伎の名女形としてならした四代目片岡我童(後の[[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡我童仁左衛門]]の門下となりに転じ、1917年(大正6年)11月に現在の[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]にあった[[中座]]で行われた片岡仁左衛門記念興行にあたり、'''片岡松燕'''を襲名して同一座の幹部となり、以後も四世我童改め十二世仁左衛門と共に各座に出演した<ref name="profile" /><ref name="meikan" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />
 
1920年(大正9年)、満25歳十二世仁左衛門時にもとを離れ、映画俳優[[尾上松之助]]の紹介招聘により[[日活京都撮影所]]に入社する<ref name="profile" /><ref name="meikan" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。同年9月19日に公開されたサイレント映画『[[尾張三郎丸 前篇]]』で映画デビューを果たす<ref name="profile" /><ref name="名鑑" />。以後、[[片岡長正]]、[[市川家久蔵]]、[[中村歌枝]]らと共に同所の女形俳優として活動するが、中でも翌1921年(大正10年)2月1日に公開された[[牧野省三]]監督映画『[[豪傑児雷也]]』では美青年・高砂勇美之助を演じ、また、同年3月10日に公開された牧野省三監督映画『[[忠臣蔵|実録忠臣蔵]]』では[[大石良金|大石主税]]を演じるなど、他の女形専門の俳優とは異なり、美青年役・立男性役として出演することもしばしばあった<ref name="profile" /><ref name="meikan" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />。その後、1923年(大正12年)9月1日に[[関東大震災]]が発生し、やがて松之助映画にも本格的に[[女優]]が採用されるようになると、松燕は正式に男優に転向、1925年(大正14年)5月31日に公開された[[池田富保]]監督映画『[[落花の舞 前篇]]』や、同年8月31日に公開された[[高橋寿康]]監督映画『[[鞍馬天狗 前篇]]』などに出演し、気品のある美しい二枚目俳優として活躍した<ref name="profile" /><ref name="名鑑" /><ref name="昭4" />
 
1926年(大正15年)6月、会社の了解を得て日活を円満退社する<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。同年10月8日、かつて[[東京府]][[豊多摩郡]][[大久保百人町]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[百人町]])に映画撮影所を設けていた[[M・パテー商会]]、後に[[日活]]に統合されてから1915年(大正4年)に[[M・カシー商会]]を立ち上げた実業家[[梅屋庄吉]]の支援を得て、[[片岡松燕プロダクション]]を設立する<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。大正時代最末期である同年12月10日、独立第一回作品となる[[高浜順]]監督映画『[[大望 (1926年の映画)|大望]]』を発表<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。以後、翌1927年(昭和2年)までに全10本のサイレント映画を製作、松燕自身も女形兼男優として主演を務めたのち、同プロは間もなく解散<ref name="profile" /><ref name="昭4" />。解散後は実演に転向、現在の[[東京都]][[台東区]]にあった[[宮戸座]]などに出演したが、この間も1937年(昭和12年)12月21日に公開された[[稲垣浩]]監督映画『[[飛竜の剣]]』を始め、同年12月31日に公開された[[マキノ正博]]監督映画『[[血煙高田の馬場]]』、翌1938年(昭和13年)3月1日に公開された[[辻吉郎]]監督映画『[[加賀百万石 (映画)|加賀百万石]]』と、日活京都撮影所製作の[[トーキー]]に特別出演した記録がある<ref name="profile" /><ref name="昭4" />
 
[[1943年]](昭和18年)[[6月10日]]、死去した<ref name="profile" />。満48歳没。
 
== おもなフィルモグラフィ ==