「笹川良一」の版間の差分
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笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が[[親米]]反共の道を選ぶべきこと」「日本同胞を[[餓死]]から救わねばならぬこと」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが、繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、[[東條英機]]に対して「あなたの[[死刑]]は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は[[昭和天皇|天皇]]にはないとはっきり主張せよ」と説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う
後年になるが、『[[世界 (雑誌)|世界]]』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は[[再軍備]]の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の[[岩波書店]]も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに[[加藤哲太郎]]が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた時、笹川と面識があった)。
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* [[笹川勝正]](長男 - 群馬県モーターボート競走会会長等を歴任)
* [[笹川堯]](次男 - [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[日本の国会議員|衆議院議員]]、[[全日本空手道連盟]]会長らを歴任)
**長男・泰弘(1963年6月2日生<ref name="人事興信録">人事興信録第45版さ172</ref>)
**次男・和弘(1965年1月19日生<ref
**三男・博義(1966年8月29日生<ref
**四男・隆弘(1967年12月20日生<ref
**五男・明弘(上記同<ref
* [[笹川陽平]](三男 - [[公益財団法人]][[日本財団]]会長)
**長男・貴生(1972年11月23日生、岩井証券取締役<ref
**次男・順平(1975年2月28日生<ref
**三男・光平(1976年8月17日生<ref
**四男・正平(1980年9月2日<ref
== 孝養の像 ==
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* [[落合信彦]]『二人の首領』 [[集英社文庫]] 1988年 ISBN 978-4087493726
* [[別冊宝島]]編集部『「カルト」の正体』 [[宝島社文庫]] 1999年12月 ISBN 4796616853 ([[統一教会]]の元幹部、西川勝のインタビューに笹川とのエピソードがある。)
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Ryōichi Sasakawa}}
* [[笹川平和財団]]
* [[笹川スポーツ財団]]
* [[ヤマト発動機]]
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* [[日本海洋少年団連盟]]
* [[世界紅卍字会]]
* [[特殊慰安施設協会]] - 総裁時代に国粋同盟は連合軍慰安所アメリカン倶楽部を開業<ref>『占領と性』2007,p.51</ref>。
* [[世界平和統一家庭連合]]
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== 外部リンク ==
* [http://www.sasakawahall.jp 笹川記念会館]
* [http://nippon.zaidan.info/kinenkan/history40/introduction/004.html 日本財団四十年の歩み 会長の交代]
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