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'''中国国民党革命委員会'''(ちゅうごくこくみんとうかくめいいいんかい、[[簡体字]]: {{lang|zh|中国国民党革命委员会}}、[[ピンイン]]: Zhōngguó Guómíndǎng Gémìngwěiyuánhuì、[[英語|英称]]: {{lang|en|Revolutionary Committee of the Chinese Kuomintang}})は、[[中華人民共和国]]の{{仮リンク|中国共産党指導下の多党合作と政治協商制|zh|中國共產黨領導的多黨合作和政治協商制度}}に参与する[[中華人民共和国の政党一覧#民主党派|民主党派]]([[衛星政党]])のひとつ。略称は「'''民革'''」。
 
== 概要歴史 ==
[[File:1953-03 1953年 中国国民党革命委员会第二届中央委员会第三次会议.jpg|thumb|200px|1953年中国国民党革命委員会第二期中央委員会第三次会議]]
 
[[蔣介石]]率いる[[中国国民党]]独裁に反対する国民党の容共左派が中心になり、宋慶齢を名誉主席、李済深を主席として、[[1948年]]1月正式に設立。メンバーのなかには、「生産人民党」や「中華民族革命同盟」のメンバーの様に、一度は国民党を脱退した者も含まれる。1948年5月、当時の民革、民連、民促は中国共産党による[[中国人民政治協商会議]]の開催に他の民主党派とともに応じて代表者を送り、臨時憲法となる[[s:zh:中國人民政治協商會議共同綱領|中国人民政治協商会議共同綱領]]の採択や[[中央人民政府]]選挙に参加した
 
1949年5月、当時の民革、民連、民促は中国共産党による[[中国人民政治協商会議]]第一期全体会議の開催に他の民主党派とともに応じ、李済深、何香凝、柳亜子等を代表者として送り、臨時憲法となる[[s:zh:中國人民政治協商會議共同綱領|中国人民政治協商会議共同綱領]]の採択や[[中央人民政府]]選挙に参加した。この選挙では、宋慶齢、李済深が中央人民政府副主席に、程潜が人民革命軍時委員会副主席に選出された。そのほか、譚平山、朱学範、伝作義、李徳全、何香凝が中央人民政府の部及び委員会の部長、主任に就いた。
設立時の綱領では「連ソ、容共、扶助工農」という[[国共合作|第一次国共合作]]の理念を含め、「革命的[[三民主義]]」を掲げた。蔣介石率いる中国国民党を「孫文の遺訓に背いた」として敵視していた。なお中華人民共和国成立時の中国国民党民主派には、中国国民党革命委員会のほかに中国国民党民主促進会(民促)と三民主義同志連合会(民連)があり、1949年11月に北京で開催された中国国民党左派第二次代表会議で正式に合併した(民主党派の一つに[[中国民主促進会]]があるが、これとは別組織)。民革は新中国の成立後に革命的三民主義や新三民主義の方針を章程から削除しており、現在はこれらを掲げていない。
 
設立時の綱領では「連ソ、容共、扶助工農」という[[国共合作|第一次国共合作]]の理念を含め、「革命的[[三民主義]]」を掲げた。蔣介石率いる中国国民党を「孫文の遺訓に背いた」として敵視していた。なお中華人民共和国成立時の中国国民党民主派には、中国国民党革命委員会のほかに中国国民党民主促進会(民促)と三民主義同志連合会(民連)があり、1949年11月に北京で開催された中国国民党左派第二次代表会議で正式に合併した(民主党派の一つに[[中国民主促進会]]があるが、これとは別組織)。民革は新中国の成立後に革命的三民主義や新三民主義の方針を章程から削除しており、現在はこれらを掲げていない。
民革は、台湾の中国国民党と関係のある人物、台湾の各界と繋がりのある中層、上層の知識人の採用に力を入れている。代表的な例としては、民革中央主席であった李済深の子である[[李沛瑶]]、北平市(現在の北京市)市長であった何思源の娘である何魯麗、中華民国[[北京政府|北洋政府]]代理大総統を務めた馮国璋の曾孫である馮鞏などが挙げられる。
 
現在の民革は、台湾の中国国民党と関係のある人物、台湾の各界と繋がりのある中層、上層の知識人の採用に力を入れている。代表的な例としては、民革中央主席であった李済深の子である[[李沛瑶]]、北平市(現在の北京市)市長であった何思源の娘である何魯麗、中華民国[[北京政府|北洋政府]]代理大総統を務めた馮国璋の曾孫である馮鞏などが挙げられる。
 
現在の民革はチベットを除く中国大陸の30の省、自治区、市に党支部を置き、党員数は2020年時点で約13万人。