「関羽」の版間の差分
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|王朝 = [[蜀漢]]
|称号・役職 = 漢寿亭侯 / 前将軍・仮節鉞
|出生 =
|出身地 = [[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]<br /> (現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村)
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年[[12月 (旧暦)|12月]]([[220年]]1月)
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|英文= Kuan Yü<br>Guan Yu
}}
'''関 羽'''(かん う、
[[蜀漢]]の創始者である[[劉備]]に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は[[曹操]]など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた[[封号]]は漢寿亭[[列侯|侯]]。[[諡]]が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた([[諡#爵諡|爵諡]]を参照)。死後、後世の人々に神格化され[[関帝]](関聖帝君・関帝聖君)となった。
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出身地から[[幽州]][[涿郡]]に逃れてきた<ref group=注釈>出身地は中国最大の[[塩湖]]である「解池」の近くにあり、そのため[[塩]]の密売に関っていたという伝説もある。また、地元・山西省の伝承によると、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われて[[幽州]]に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗ったともいわれる([[今泉恂之介]]『関羽伝』)。</ref>。
[[黄巾の乱]]が起きると、義勇兵を挙げた劉備・[[張飛]]と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務め、[[簡雍]]・[[田豫]]らと各地を転戦し
=== 忠義を貫く ===
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== 人物 ==
『[[春秋左氏伝]]』を好み、ほぼ暗誦できた<ref>『江表伝』</ref>
219年に[[龐徳]]から毒矢を受けた際<ref>『魏志』「龐徳伝」</ref>、骨にまで毒が染み込んでいたために、肘を切開して毒が染み込んだ部分を削り取らせたことがあったが、宴会の最中であったにもかかわらずその場で切開させ、痛むそぶりも見せずに酒や肉を飲食し、平然と談笑していたという<ref group=注釈>『蜀志』「関羽伝」には「言笑自若(げんしょうじじゃく)」との表現があり、これは「泰然自若」の同義の四字熟語になっている。</ref>。
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