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一茶は長い西国への旅の中にあっても、江戸を始め各地の俳人との連絡を欠かさなかった。中でも後に最も親しく交際する夏目成美とは、西国旅行の期間に文通が始まっている。一茶は当時文音所と呼ばれた一種の私書箱などを活用して、様々な情報を集めながら旅を続けていた。そして旅の中にあっても一茶は諸学を学ぶことを怠らなかった。前述の万葉集、古今和歌集といった古典ばかりではなく、[[易経]]といった中国の古典、そして芭蕉、[[宝井其角]]といった先覚の作品を学んでいた<ref>矢羽(2004)p.46、渡邊(2015)pp.96-103</ref>。また一茶は生涯書き続けた「方言雑集」というメモ集がある。これは一茶が訪れた各地の方言、風土をメモしたもので、方言雑集の始まりは西国俳諧修行の旅であったと考えられている。そして一茶の日記の中にも各地で体験した出来事のメモ書きが多く残されている。一茶の俳句の中には俗語や方言を大胆に取り入れた作品があるが、西国俳諧修行の中で、一茶は日々貪欲に様々な事物を吸収し、己の句作へと生かしていくことになる<ref>青木(2013a)pp.86-87、渡邊(2015)pp.104-107</ref>。
寛政8年([[1796年]])、一茶は松山の栗田樗堂宅を拠点として伊予の各地を訪れた記録が残っている。寛政9年([[1797年]])の正月を樗堂宅で迎えた一茶は、春には[[備後]]の[[福山市|福山]]、その後讃岐の[[高松市|高松]]、[[小豆島]]、そして[[近江国|近江]]の大津、大坂を回り、結局大和の[[長谷寺]]で年を越した。一茶としては寛政9年中に江戸へ戻る心つもりであったが、結局寛政10年([[1798年]])前半は近畿の各地を回ることになった。そして寛政10年には西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき2冊目の著作、「さらば笠」を出版する。同年6月末になってようやく江戸への帰途につき、いったん信濃の故郷に戻った後、8月下旬、6年あまりぶりに江戸へと戻った<ref>矢羽(2004)pp.64-70</ref>。
==== 江戸に戻って ====
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