削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
84行目:
8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入ると[[伊達行朝]]、[[中村経長]]の軍を中心に、12月8日には足利方の[[小山城]]を陥落させ、[[小山朝郷]]を捕えた<ref name="日本の歴史学講座HP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。顕家は足利方の大軍を、12月13日に[[利根川]]で([[利根川の戦い]])、12月16日に安保原でそれぞれ破った([[安保原の戦い]])<ref name="#1">『大日本史料』6編4冊453頁</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。遂には北朝方にいた[[宇都宮公綱]]も顕家軍に加わった。
 
12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した([[杉本城の戦い]])<ref name="#1"/><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="日本の歴史学講座HP" />。この際、[[斯波家長]]は討ち取られ、足利義詮・[[上杉憲顕]]・桃井直常・[[高重茂]]らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した<ref>『大日本史料』6編4冊458頁「太平記」</ref><ref name="日本の歴史学講座HP" />。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子[[新田義興]]、さらには[[北条時行]]が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった。『太平記』の物語では、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったと描かれているが、これは誇張であると考えられる。いずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。
 
『太平記』の物語では、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、「これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから」と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。