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'''光格天皇'''(こうかくてんのう、[[1771年]][[9月23日]]〈[[明和]]8年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]〉 - [[1840年]][[12月11日]]〈[[天保]]11年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]〉)は、[[日本]]の第119代[[天皇]]{{Refnest|group=注釈|光格天皇自身は、「神武第'''百二十代'''兼仁」「神武百二十世兼仁」「百二十代兼仁」と自署していた<ref> 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586903/351 宸翰栄華]』 </ref>。この差異は、『[[本朝皇胤紹運録]]』にて、現在は歴代天皇に数えられていない[[北朝 (日本)|北朝]]の天皇を歴代天皇として数えていることから来る<ref> 「[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Gallery/32a6ca4ba39d417e9ed5096d688b0e18?start=20&rows=20 書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』]」 </ref>。}}(在位: [[1780年]]1月1日〈[[安永 (元号)|安永]]8年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]〉 - [[1817年]]5月7日〈[[文化 (元号)|文化]]14年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]〉)。[[御称号]]は'''祐宮'''(さちのみや)。[[諱]]は'''師仁'''(もろひと)、のち'''兼仁'''(ともひと)<ref group="注釈">初め師仁と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、[[践祚]]と同時に兼仁に改めた。</ref>。
 
父は閑院宮典仁親王。母は[[大江磐代]]([[鳥取藩]][[倉吉市|倉吉]]出身の医師[[岩室宗賢]]の娘)。[[東山天皇]]は曽祖父、[[桃園天皇]](先代、[[後桃園天皇]]の父)と[[後桜町天皇]](先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]([[1779年]][[12月15日]])に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には[[閑院宮美仁親王]]や[[真仁法親王]]がいる
 
[[一世一元の詔]]発布([[一世一元の制]]導入)以前に[[譲位]]した最後の天皇であり、以降、[[平成]]31年([[2019年]])[[4月30日]]に第125代天皇[[明仁]]が[[譲位]]するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。