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[[文禄]]4年([[1595年]])からは秀吉の命で[[千僧供養]]が開始され、京都およびその近郊([[山城国]])に拠点を有する仏教八宗([[天台宗]]・[[真言宗]]・[[律宗]]・[[禅宗]]・[[浄土宗]]・[[日蓮宗]]・[[時宗]]・[[浄土真宗]])に対して僧侶100名で出仕するよう命じた。義演率いる真言宗は、[[千僧供養]]に他宗派とともに出仕した。ただし義演は自身の日記に「浄土宗以下八宗と同日同請、当時のていたらく威命に応ずるばかりなり(浄土宗以下の八宗と同じ日に同じように出仕を要請されるというなさけないありさまに陥っているのは、ただ秀吉の命令に応じざるを得ないからだ)」と著した<ref name="河内(2008)85">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.85</ref>。義演は自宗(真言宗)が長年国家鎮護を担ってきたが、真言宗と同じくらいの歴史を有し競合している天台宗および、義演が格下と見なしてきた新興の鎌倉新仏教の諸派と同日出仕とさせられることに不満を持っていた<ref name="河内(2008)86-88">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.86-88</ref>。千僧供養は当初、法要日一日を時間で区切り、時差式で各宗派が出仕をしていた<ref name="河内(2023)38">[[#河内(2023)|河内(2023)]] p.38</ref>。この方式の欠点として、先の順の宗派ほど格上と見えるため、出仕の順を巡ってトラブルが生じるようになった。[[慶長]]5年(1600年)には、宗派間のトラブル回避のためか、千僧供養は月ごとに各宗派が持ち回りで法要を行う形式に改められ、宗派間で出仕順を競る必要がなくなった<ref name="河内(2008)91">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.91</ref>。しかしこの変更は、見方によっては八宗が全て対等とも捉えられるので、鎌倉新仏教の諸派を格下と見なす義演は「末世末法あさましき次第なり」などと日記に書き記した<ref name="河内(2008)92">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.92</ref>。
 
元和年間に義演は、室町時代から途絶えていた[[後七日御修法]]を再興した。
 
義演は三宝院の宝蔵の充実を図るために貴重な書籍を見つけては、何人かの手で筆写させ、それを宝蔵に収集した<ref>「義演准后日記」『史料纂集 古記録編 48』(続群書類従完成会、2004年)、梶村昇『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐ、況や悪人をや」』(大東出版社、1999年)74頁</ref>。その中の、[[法然]]伝記の一級資料と評される、『法然上人伝記』(醍醐本)は、法然に近侍した[[源智]]が書き記したといわれるものを、義演が江戸時代初期に書写させたものであり、[[大正]]6年([[1917年]])に醍醐寺三宝院の宝蔵から発見された<ref>梶村昇『勢観房源智-念仏に生きた人1』(東方出版、1993年)、98頁</ref>。