「食の安全」の版間の差分
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[[1850年]]ころ、イギリスの医師で医学専門誌『[[ランセット]]』の編集者でもあり、[[検視官|検死官]]でもあるトーマス・ワクリー<ref group="※">翻訳によっては「トーマス・ウェイクリー」とも。</ref>([[:en:Thomas Wakley]])は、その仕事柄、数多くの人々が粗悪食品製造業者のせいで死んだり苦しんだりするのを目の当たりにしていた。ワクリーはこの問題に関して徹底的な調査を行うことを要求した<ref name="john_55_56">{{Harvnb|ジョン・ハンフリース|2002|pp=55-56}}</ref>。すると、[[アーサー・ヒル・ハッサル|アーサー・ハスル]]博士 (Arthur Hill Hassall)<ref group="※">「Hassall」は翻訳によっては「ハッサル」とも。</ref>(ロンドンのロイヤル・フリー・ホスピタルの内科医兼講師)がその調査を担当することになった。この調査のために2400件の試験が行われた。これほどまで多品種の食品について、かつ厳密なやり方で系統だった試験が行われたのはおそらく世界で初である<ref name="john_55_56"/>。その試験の結果明らかになったのは、当時のイギリスでは「基本食品を正常な状態で買うことは、ほぼ不可能」という結論だった。そして、その調査によって明らかになった粗悪品の製造や取引にかかわった製造業者や商人たちの名は公表されることになった<ref name="john_55_56"/>。(アーサー・ハスルは調査結果を本にまとめ、''FOOD AND ITS ADULTERATIONS'' 『食品とその混ぜもの処理』というタイトルで1855年に刊行した。<ref group="※">FOOD AND ITS ADULTERATIONSは、その一部翻訳を青空文庫で読むことも可能[http://www.aozora.gr.jp/cards/001721/card55278.html]である。</ref>)
[[File:The Great Lozenge-Maker A Hint to Paterfamilias.jpg|thumb|250px|ブラッドフォード毒菓子事件の風刺画]]
次第にイギリス議会もこの問題(食の安全問題)に注目しはじめ、議会内に複数の委員会が発足した。[[1855年|1855]]〜[[1886年|56年]]ごろに、医師、化学者、製造業者、商人などが、(議会で)議員らの前で証言を行った。もっとも、当時のイギリスの政治も(他国、他の時代同様に)腐敗しており、議員らは後援者から献金を受け取ると、後援者にとって都合の悪い法案はことごとく廃案にしつづけていたものだった。だが、食品関連の問題に関しては
19世紀なかごろのアメリカ合衆国においては、牛乳に不正な物質が混入されることが頻発し、1853年1月22日、ニューヨーク・タイムズは ''DEATH IN THE JUG.'' 「[[ジャグ]]<ref group="※">ジャグ (jug) とは一般に、口の開いた、取手(もち手)のついた大きな容器。19世紀ではしばしば陶器製。日本語では「水差し」といった表現が近い、が他の液体を入れると表現が完全には合致しない。</ref>の中に死がある」 という記事を掲載。ニューヨーク市内に供給された牛乳の本当の生産量が約680万[[ガロン]]であったのに対し、同年の同地域の実消費量は約750万ガロンと推計されるので、結局、差し引き約70万ガロンにもおよぶ、牛乳以外の何らかのインチキの液体が混入している、と指摘された(swill milk scandal '''[[残滓牛乳事件]]''')。この問題はいくつもの新聞で指摘されたにもかかわらず、すぐに解決することができず、解決したのは結局19世紀末期になってからのことであり、乳業における低温加熱殺菌法の導入、牛乳の小口梱包技術([[牛乳瓶]]など)の発明、しっかりした規制方法の確立を待たねばならなかった。
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