「薬丸自顕流」の版間の差分
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明治の後は、[[郷中]]が[[学舎]]に改称され[[学舎]]を中心に教授される。
第二次世界大戦後は、代々薬丸家に伝承した野太刀自顕流も、後継者として期待された第12代[[薬丸兼吉]]の長子[[薬丸兼教]]が沖縄戦で戦死し、薬丸本家が断絶した。その際に、野太刀自顕流薬丸本家最後の当主である[[薬丸兼吉]]は「自顕流宗家は自分までで終わりとしたい」と話していた。しかし戦後の武道人口の減少に対処すべく再度の復興を期して、昭和32年に[[薬丸兼吉]]の了解のもと、高弟[[奥田真夫]]とその弟子[[伊藤政夫]]が中心となって、共研舎に最初の薬丸流門人組織である野太刀自顕流研修会が発足した。戦後は共研舎を中心に広がりを見せていく事となる。平成10年には、研修会門弟であった[[中山正春]]と[[東隆一]]が中心となって薬丸野太刀自顕流保存会が設立された。その後、[[薬丸兼吉]]の弟[[薬丸幸吉]]を第13代、その孫で当時保存会門弟であった[[薬丸康夫]]を突然第14代宗家として独立したのが薬丸自顕流顕彰会である。[[奥田真夫]]は一時期、「流派の代表は自分よりも薬丸姓の者が良い」と薬丸康夫を宗家として擁立しようとしたが、紆余曲折あり結局棚上げとなった。その為、薬丸康夫が現在宗家と名乗っているものの、あくまで薬丸自顕流顕彰会の中だけの話であり、流派の宗家として[[奥田真夫]]や当時の高弟たちが認知したものでなく、[[奥田真夫]]の死後浮かび上がった事である為間違いである。また、平成19年には[[奥田真夫]]の晩年の弟子であり、当時顕彰会に所属していた[[別府修一]]が野太刀自顕流奥田派(平成27年より野太刀自顕流兵法会と改称)の師範として独立する。一方、平成4年に[[伊藤政夫]]の弟子である[[井谷利之]]は、滋賀県大津に薬丸自顕流近江道場を設立した。(現在は閉鎖)また、同じく[[伊藤政夫]]より自顕流を受け継いだ加治木島津家第十三代当主[[島津義秀]]は、平成15年に設立したNPO法人島津義弘公奉賛会の活動の一環として、野太刀自顕流研修会青雲舎道場にて同流を修行している。
薬丸流は後述する段位制度や技法、稽古法、礼式等に関する認識の違いから、現在では様々な会派に分かれている。しかし、本来段位制度が無く、薬丸本家も断絶しているために、師範及びその後継者となる者の選考基準(流派の技自体が少なく、印可状も無いため、技を覚えれば理論上は誰でも師範として道場を持つことができる)や、公開演武における各会派の出演権など、各会派の問題も少なからず残されている。
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