「忠臣蔵」の版間の差分
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== 解説 ==
[[江戸時代]]中期の[[元禄]]14年[[4月21日 (旧暦)|3月14日]]([[1701年]][[4月21日]])、[[江戸城]]殿中[[松之大廊下]]で[[赤穂藩]]藩主・[[浅野長矩|浅野長矩(内匠頭)]]が[[高家 (江戸時代)|高家肝煎]]・[[吉良義央|吉良義央(上野介)]]に刃傷に及んだことに端を発する。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩[[家老|国家老]]・[[大石良雄|大石良雄(内蔵助)]]をはじめとする[[赤穂浪士]](赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1703年]][[1月30日]])未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び[[武林隆重]]が吉良を討ち取り、
{{main|赤穂事件}}
[[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, The Chushingura.jpg|thumb|300px|「忠臣蔵十一段目夜討之図」 [[歌川国芳]]画。]]
この赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸[[山村座]]の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。[[曾我兄弟の仇討ち]]という建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。
宝永7年([[1710年]])、[[大坂]]の篠塚座での『鬼鹿毛無佐志鎧』(おにかげ むさしあぶみ)は、冒頭で驕れる小栗(浅野)と荒ぶる大岸(大石)を「君子にあらず」と諷刺する『[[中庸]]』「第十章」からの引用で始まり、後世の義挙とする忠臣蔵、なかんずく大石を賞揚した内容にはなっていない<ref>廣野行雄『なぜ大石が大星なのか』14頁(『駿河台大学論業叢』第51号、2015年)</ref>。しかし、幕府は「前々も令せられしごとく、当世異事ある時、謡曲芝居小歌につくり、はた梓にのぼせ売りひさぐ事、弥々停禁すべし。戯場にても近き異事を擬する事なすべからず(大成令)」と禁令を出し、この事件を扱うものは現れてきていない<ref>『常憲院殿御実記』巻四十七</ref>。
== 「忠臣蔵」の誕生 ==▼
<!--主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。--><!--忠臣蔵が人気になるのは寛延元年(1748年)に「仮名手本忠臣蔵」上演以降であり、事件当時は民衆から喝采を持って迎えられていない。『元禄快挙録』『赤穂義士一夕話』には「江戸の町民が引き上げの赤穂義士を見て恐れおのめいていた」と記されている。-->▼
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赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が[[歌舞伎]]、[[人形浄瑠璃]]、[[講談]]、[[戯作]]などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。▼
その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『'''仮名手本忠臣蔵'''』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。
[[延享]]4年(1747年)には[[助高屋高助 (初代)|初世沢村宗十郎]]が京都中村粂太郎座の『大矢数四十七本』で大岸宮内を演じた。そしてその集大成が[[寛延]]元年([[1748年]])8月に上演された二代目[[竹田出雲]]・[[三好松洛]]・[[並木宗輔|並木千柳]]合作の人形浄瑠璃『'''[[仮名手本忠臣蔵]]'''』である。初演のときには「古今の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。
『仮名手本忠臣蔵』はのちに[[独参湯]](薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほどであった。さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と[[怪談]]を組み合わせた[[鶴屋南北 (4代目)|鶴屋南北]]作『[[四谷怪談#東海道四谷怪談|東海道四谷怪談]]』がある。
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江戸時代、[[江戸幕府]]から同時代に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたので、赤穂事件についても幕府を憚って舞台を室町時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託していた。近松の作品では『[[太平記]]』の時代を舞台とし、登場人物の名として浅野内匠頭を塩冶判官([[塩冶高貞]])、吉良上野介を[[高師直]]に擬し、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件を表現していることがわかるように、塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の「高」は吉良上野介の役職「[[高家 (江戸時代)|高家]]」とかけられている。太平記に登場しない人物の名も変えられた(大石内蔵助→大星由良助など)。
「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけているなどとされるが、定かではない。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は'''忠臣蔵'''ものと呼ばれる事になる。
[[明治]]以降、[[江戸幕府]]が滅亡しその憚りがなくなったので、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。明治41年から[[福本日南]]が忠臣蔵の真相と銘打って、義士録をもとに浪士側に立った『元禄快挙録』を新聞連載して話題となり、近代日本の忠臣蔵観を主導した<ref>[http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/070/01.html 地域社会貢献活動 ふるさと歴史シリーズ「博多につよくなろう」福本日南]西日本シティ銀行、平成12年1月</ref><ref>[https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/331591+.html 元禄快挙録] 岩波書店</ref>。「忠臣蔵」は人気が高く、[[昭和]]9年([[1934年]])には資料調査をした[[新歌舞伎]]『[[元禄忠臣蔵]]』([[真山青果]]作)が上演されている。[[講談]]、[[浪曲]]でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。
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[[ファイル:Ako Gishisai De09 13.jpg|thumb|right|200px|[[赤穂義士祭]]の義士行列]]
本所の吉良邸襲撃の日は[[12月14日 (旧暦)|旧暦12月14日]](正確には翌日未明)であったが、現在に至るも[[12月14日|新暦12月14日]]が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。多くの[[映画]]製作、[[テレビドラマ]]化、舞台上演がほぼ毎年行われている。現在では、多くの資料研究の進展を反映させた書籍の出版や実名での作品化がなされるようになり、価値観の多様化と研究考証から、討ち入りに参加しなかったあるいは出来なかった赤穂藩士、討ち入り後に残された義士の遺族や子孫、敵役とされる吉良側、当時の江戸幕府の事情など、様々な視点に立って作品化がなされている。
▲== 「忠臣蔵」の誕生 ==
▲<!--主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。--><!--忠臣蔵が人気になるのは寛延元年(1748年)に「仮名手本忠臣蔵」上演以降であり、事件当時は民衆から喝采を持って迎えられていない。『元禄快挙録』『赤穂義士一夕話』には「江戸の町民が引き上げの赤穂義士を見て恐れおのめいていた」と記されている。-->
▲赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が[[歌舞伎]]、[[人形浄瑠璃]]、[[講談]]、[[戯作]]などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。
▲その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『'''仮名手本忠臣蔵'''』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は'''忠臣蔵'''ものと呼ばれる事になる。
== 「忠臣蔵」の評価 ==
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==== 『碁盤太平記』 ====
討入りから4年後の[[宝永]]3年(1706年)の6月に、赤穂事件に題材をとった[[近松門左衛門]]作の一段だけの人形浄瑠璃『'''[[碁盤太平記]]'''』が竹本座で上演されている<ref name="matsushima133" />。これは(前述の禁令により赤穂事件を直接扱う事はできないので)太平記の世界に擬して赤穂事件を取り扱ったもので、同じく太平記に擬して赤穂事件を扱う『仮名手本忠臣蔵』に影響を与えている。とくに、大石内蔵助に相当する人物が『仮名手本忠臣蔵』と同じく'''大星由良之助'''(おおぼしゆらのすけ)という名前で初めて登場している<ref name="matsushima133" />事は特筆に値する。時は[[暦応]]年間、大星は鎌倉の同志から密書を集め、荒法師の[[吉田兼好]]が大暴れ、力弥に討たれた塩冶の足軽平右衛門が死に際に[[碁盤]]に碁石を並べ高師直の邸内図としている<ref>[[#松島(1964)|松島(1964)]] p133</ref>。<!--
浅野内匠頭の7回忌にあたる宝永5年1月には赤穂事件を扱ったものと思われる車屋忠右衛門作作の歌舞伎『福引閏正月』が京都の亀屋粂之丞座で上演され<ref name="matsushima133" />、宝永7年には大阪の篠塚庄松座で吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』(おにかげむさしあぶみ)が上演されて好評を得ており<ref name="matsushima133" />(ここでは内蔵助は大岸宮内という名)、同年秋には京都の夷屋座で『太平記さゞれ石』が上演され<ref name="matsushima133" />、冬にはその続きの『削後(さざれいし)太平記』が上演され<ref name="matsushima133" />、秋にも大阪の八重桐座で赤穂事件を扱った歌舞伎が上演されている<ref name="matsushima133" />。-->
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浅野内匠頭の17回忌にあたる[[正徳 (日本)|正徳]]3年の12月には大阪の豊竹座で[[紀海音]]作の人形浄瑠璃『'''鬼鹿毛無佐志(むさし)鐙'''』が上演されている。これは宝永7年に大阪の篠塚庄松座で上演された吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』に負う所が大きい<ref name="matsushima133" />もので、内蔵助は『鬼鹿毛武蔵鐙』と同じく大岸宮内という名である。この作品では赤穂事件を『太平記』に仮託しつつ、そこから離れて[[足利義政]]の時代の事件の[[小栗判官|小栗判官と照手姫]]の物語も取り上げられている<ref name="matsushima133" />。
本作は構成上の不備がある、討入りや義士たちを全く賞賛してはいない、等傑作とは言い難い面がある<ref name="akou3-302">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第四巻p302-303</ref>が、『仮名手本忠臣蔵』の七段目に影響を与える等、義士劇の系譜の上では重要な位置を占める<ref name="akou3-302" />。
この作品は近松門左衛門のライバルであった紀海音であり、内容的にも近松門左衛門の『碁盤太平記』を意識したものになっている<ref name="matsushima147">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p147-148</ref>。
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