「扇谷上杉家」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: 取り消し 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
編集の要約なし タグ: 手動差し戻し ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
11行目:
[[文安]]4年([[1447年]])には[[足利成氏]]が下向して鎌倉公方が再興されるが、[[宝徳]]2年([[1450年]])には鎌倉公方・成氏と山内[[上杉憲忠]]が対立し([[江の島合戦]])、成氏はこの時に山内家[[家宰]]・[[長尾景仲]]と扇谷家家宰・[[太田資清|太田道真]]を非難している。
鎌倉公方と関東管領の対立は一時的に和睦が成立するが、[[享徳]]3年([[1454年]])鎌倉公方・成氏に山内上杉憲忠が[[暗殺]]され、全面戦争となる([[享徳の乱]])。足利成氏は[[古河市|古河]]を拠点とし([[古河公方]])、第8代[[征夷大将軍|室町将軍]]・[[足利義政]]は関東管領方に加担して異母兄の[[足利政知]]を送り込み、政知は[[伊豆国|伊豆]]において[[堀越公方]]となった。堀越公方・政知並びその側近・[[渋川義鏡]]との対立<ref>堀越公方は伊豆国を本拠地としていたが、自身や渋川義鏡をはじめとする京都から下向した家臣の基盤として相模国などの近隣の在地領主の土地に進出しようとしたため、扇谷家と対立した(木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館、P324-325)。</ref>はあったものの、扇谷家は[[相模国|相模]]を中心とする[[戦国大名]]として成長した。享徳の乱において扇谷上杉氏は[[上杉持朝]]が家宰太田道真に命じて[[川越城|河越城]]、[[江戸城]]、[[岩槻城]]を築城させて武蔵の分国化の足がかりを築き<ref>但し岩槻城については、太田道真・道灌父子でなく[[成田正等]]による築城説が今は主流である。</ref>、河越に拠点を移した。
|