この記事では'''[[スリランカ]]の[[歴史]]'''について解説する。[[スリランカの国旗]]には[[ライオン]]が描かれているが、これは最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんだものである{{Sfn|南アジアを知る事典|(平凡社)|p=832}}。
[[紀元前483年]]に[[シンハラ族]]の祖とされる[[ウィジャヤ|ヴィジャヤ]]王子が来島し、シンハラ王朝を建てて、[[アヌラーダプラ王国]]を作ったとされる。王都は[[アヌラーダプラ]]に置かれた。[[紀元前3世紀]]中頃に[[アショーカ王]]の王子[[マヒンダ]]が[[仏教]]を伝え、アヌラーダプラにマハービハーラ(大精舎)が建てられた。[[1505年]]には[[ポルトガル人]]が、[[1658年]]には[[オランダ人]]が来航し、海岸地帯を[[植民地]]化した。その後[[1802年]]にアミアン条約によりイギリスの植民地となり、[[1815年]]にはキャンディー王朝が滅亡して全島がイギリスの植民地となった。[[1948年]]イギリス連邦内の[[自治領]]として独立。[[1972年]]には国名を「スリランカ共和国」に改めるとともに、イギリス連邦内自治領[[セイロン]]から完全独立した。そして[[1978年]]9月に、国名を「スリランカ民主社会主義共和国」に改称した。[[2004年]]12月に起きた[[インド洋大津波]]では、大半の沿岸が被災し、3万人以上が犠牲になるなど甚大な被害が出た<ref>{{Cite journal|last=修|first=村尾|date=2015-10|title=2004年インド洋津波被災地の現在 : スリランカ・タイ・インドネシア (特集 アジア地域の地震災害) -- (近年のアジア地域で発生した地震災害のその後)|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520853834794803968|journal=日本地震工学会誌 = Bulletin of JAEE / 日本地震工学会 編|issue=26|pages=25–28|language=ja}}</ref>。 ▼
== 概要 ==
スリランカの歴史はより広範な[[インド亜大陸]]とその周辺地域([[南アジア]]や[[東南アジア]]、[[インド洋]])の歴史と絡み合っている。
現在のシンハラ人は、インド=アーリア人と先住民との混血である<ref>{{Cite encyclopedia|url=https://www.britannica.com/topic/Sinhalese|title=Sinhalese {{!}} people|encyclopedia=Encyclopedia Britannica|access-date=2018-02-02|language=en}}</ref> 。シンハラ人はインド=アーリア系の言語・文化・宗教(上座部仏教)・遺伝学・自然人類学に基づいて、近隣の南インド諸族とは異なるエスニック・グループであると認識されている。
== 年表スリランカ史 ==
▲[[紀元前483年]]に[[シンハラ族]]の祖とされる[[ウィジャヤ|ヴィジャヤ]]王子が来島し、シンハラ王朝を建てて、[[アヌラーダプラ王国]]を作ったとされる。王都は[[アヌラーダプラ]]に置かれた。[[紀元前3世紀]]中頃に[[アショーカ王]]の王子[[マヒンダ]]が[[仏教]]を伝え、アヌラーダプラにマハービハーラ(大精舎)が建てられた。[[1505年]]には[[ポルトガル人]]が、[[1658年]]には[[オランダ人]]が来航し、海岸地帯を[[植民地]]化した。その後[[1802年]]にアミアン条約によりイギリスの植民地となり、[[1815年]]にはキャンディー王朝が滅亡して全島がイギリスの植民地となった。[[1948年]]イギリス連邦内の[[自治領]]として独立。[[1972年]]には国名を「スリランカ共和国」に改めるとともに、イギリス連邦内自治領[[セイロン]]から完全独立した。そして[[1978年]]9月に、国名を「スリランカ民主社会主義共和国」に改称した。[[2004年]]12月に起きた[[インド洋大津波]]では、大半の沿岸が被災し、3万人以上が犠牲になるなど甚大な被害が出た<ref>{{Cite journal|last=修|first=村尾|date=2015-10|title=2004年インド洋津波被災地の現在 : スリランカ・タイ・インドネシア (特集 アジア地域の地震災害) -- (近年のアジア地域で発生した地震災害のその後)|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520853834794803968|journal=日本地震工学会誌 = Bulletin of JAEE / 日本地震工学会 編|issue=26|pages=25–28|language=ja}}</ref>。
*[[紀元前5世紀]]: [[紀元前483年]]に[[シンハラ人]]の祖とされる[[ウィジャヤ|ヴィジャヤ]]王子がスリランカに上陸し、[[アヌラーダプラ王国]]を作ったとされる。王都は[[アヌラーダプラ]]に置かれた。
*[[紀元前3世紀]]: [[アショーカ王]]の王子[[マヒンダ]]が[[仏教]]を伝えたとされ、これ以後、[[上座部仏教]](テーラワーダ仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。
*[[紀元前2世紀]]以降: 南インドから[[タミル|タミル人]]を主体とする断続的な移住者があり、現在のスリランカ・タミル人の原型を形成したと考えられる。
*[[5世紀]]: [[409年]]、中国、東晋の僧である[[法顕]]が来島、2年ほど過ごし『[[仏国記]]』に記録を残す。[[477年]]、[[アヌラーダプラ]]で父を殺した王子が[[シーギリヤ|シーギリアロック]]の岩山の頂に宮殿を築いて遷都して[[カッサパ1世]]となるも、数十年で王都を元に戻す。
*[[11世紀]]: 1017年、南インドの[[チョーラ朝]]の侵入により王都を放棄した。
*[[11世紀]]: 王国は[[アヌラーダプラ]]の南東90キロの[[ポロンナルワ]]に移動し、1070年にチョーラ朝の勢力は撃退され、繁栄の時代を迎えた。ポロンナルワが王都となる(1070年 - 1255年、1287年 - 1293年)。
*[[13世紀]]: 南インドでの動乱に伴い、[[チョーラ朝]]のタミル人の侵入が激しくなった。王都は北部から中部・南部に移動し、ダンバデニヤやヤーパフワを経て、[[スリジャヤワルダナプラコッテ|コーッテ]]でやや安定する。[[マルコ・ポーロ]]が来島し、『[[東方見聞録]]』に記録を残す。
*[[14世紀]]: [[イブン・バットゥータ]]が来島し、『[[三大陸周遊記]]』に記録を残す。
*[[15世紀]]: [[鄭和]]が1410年に来島し、形式上では[[明]]の[[朝貢国]]となった。中央部に[[キャンディ王国]](1469年 - 1815年)が成立し、[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]を王都とした。低地には[[コーッテ王国]](1371年 - 1597年)、北部には[[ジャフナ王国]](14世紀 - 1620年)があった。
*[[16世紀]]: [[1505年]]に[[ポルトガル人]]が[[コロンボ]]に商館を建設し植民地化([[ポルトガル領セイロン]]、1505年 - 1658年)<ref name=":0">{{Cite web|title=スリランカ民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/data.html|website=外務省|accessdate=2019-07-27|language=ja}}</ref>。植民都市[[ゴール (スリランカ)|ゴール]]も建設される。
*[[17世紀]]: [[1658年]]にオランダ人が来航。[[ポルトガル]]に代わり[[オランダ]]が植民地化([[オランダ領セイロン]]、1658年 - 1796年)。
*[[18世紀]]: [[イギリス]]の東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を始める([[イギリス領セイロン]]、1796年 - 1948年)。
*[[1802年]]: イギリス本国の直轄植民地 (crown land) になり、[[アミアンの和約|アミアン講和条約]]でイギリスの領有が確定する<ref name=":0" />。
*[[1815年]]: イギリス軍は[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]に入り、王権は消滅した。[[ウィーン会議]]でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。
*[[1832年]]: コールブルックの改革( - 1833年)で、全土が均一に支配されるようになった。
*[[1891年]]: [[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ]]が仏教の復興を目指す{{仮リンク|大菩提会|en|Maha Bodhi Society}}を創立。
*[[1931年]]: {{仮リンク|ドナモア憲法|en|Donoughmore Constitution}}が制定され、アジア初の普通選挙法が施行された。
*[[1942年]]: [[セイロン沖海戦]]が勃発。イギリス海軍[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]の拠点であったコロンボ、トリンコマリーが、[[大日本帝国海軍]]により空爆される。
=== 独立後 ===
[[ファイル:SL Independence.jpg|thumb|独立式典]]
*[[1948年]]: 2月4日に[[イギリス連邦]]内の[[自治領]]([[英連邦王国]])として独立した。国名は[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]。[[統一国民党 (スリランカ)|統一国民党]] (UNP) の[[D. S. セーナーナーヤカ]]が首相に就任した。
*[[1949年]]: タミル人の[[選挙権]]を剥奪。
*[[1951年]]: [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和会議]]において、セイロン代表として会議に出席していた[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]大蔵大臣(のちにスリランカ第2代大統領)は「憎悪は憎悪によって止むことはなく、[[愛]]によって止む」という[[仏陀]]の言葉を引用して、[[日本]]への戦時賠償請求を放棄する演説を行った<ref> 木立順一著 救国論.p.75.メディアポート.{{ISBN2| 978-4865581089}}(2015)</ref>。
*[[1956年]]: 総選挙で人民統一戦線が勝利し、[[スリランカ自由党]] (SLFP) の[[ソロモン・バンダラナイケ]]が首相に就任し、シンハラ語公用語法案を制定した。さらに、タミル人は[[公務員]]から排除された。このシンハラ・オンリーの政策によってタミル人との対立が高まり、のちの大規模な民族対立の原因となる。仏陀入滅2500年祭 (Bhuddha Jayanti) が開催され、シンハラ仏教ナショナリズムが高揚する。東部とコロンボでタミル人の民族暴動が起こる。
*[[1959年]]: ソロモン・バンダラナイケが仏教僧によって暗殺される。
*[[1972年]]: SLFPが選挙に勝利して、[[シリマヴォ・バンダラナイケ]]が首相に就任(世界初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]])。仏教を準国教扱いにする新憲法を発布した。[[共和制]]に移行し、国名を'''スリランカ共和国'''に改称。[[タミル・イーラム解放のトラ#LTTEの設立|タミルの新しいトラ]](TNT。LTTEの前身)が成立し、タミル人国家[[タミル・イーラム|イーラム]]樹立の要求を掲げて、分離独立運動を開始した。
*[[1977年]]: UNPが選挙に勝利し、[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ|ジャヤワルダナ]]が首相に就任。資本主義の導入、経済の自由化が始まる。
*[[1978年]]: [[議院内閣制]]から大統領が執行権を行使する[[大統領制]]に移行し、現国名に改称。
=== 26年にわたる内戦 ===
{{Main|スリランカ内戦}}
*[[1983年]]: シンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こり、全土にわたって暴動が繰り返された。これ以後、2009年に至るまで長期間の内戦が継続した。シンハラ人と[[スリランカ・ムーア|ムーア人]]の対立、シンハラ人内部の対立も激化する。
*[[1984年]]: 首都を[[コロンボ]]からその南東15kmに位置する[[スリジャヤワルダナプラコッテ]]へ遷都。ただし行政庁舎は旧首都に留め置かれる。
*[[1987年]]: 反政府組織[[タミル・イーラム解放のトラ]] (LTTE) が独立宣言し、内戦が続いた。 7月にはスリランカ・インド平和協定が成立、インド平和維持軍(IKPF)がスリランカへ進駐したが状況は収束せず、散発的なテロが続き再び戦いが起こった。 11月には憲法が改正、公用語にタミル語が追加された。
*[[1988年]]: [[ラナシンハ・プレマダーサ]]が大統領に就任し、内戦の終結を画策したが失敗する(1993年に暗殺)。
*[[1989年]]: シンハラ人の急進派であった[[スリランカ人民解放戦線|人民解放戦線]](JVP。1967年成立)の指導者、{{仮リンク|ローハナ・ウィジェウィーラ|en|Rohana Wijeweera}}が殺害され、南部の治安が改善された。
*[[1990年]]: インド平和維持軍(IKPF)が完全に撤退する。
*[[1991年]]: インドの[[ラジーヴ・ガンディー]]元首相が暗殺。LTTEの犯行声明が出される。
*[[1994年]]: SLFPを主体とする[[人民連合 (スリランカ)|人民連合]] (PA) が選挙に勝利し、[[チャンドリカ・クマーラトゥンガ]]が首相となり、のちに大統領に選出される。
*[[2001年]]7月: LTTEにより[[バンダラナイケ国際空港襲撃事件]]が引き起こされる。
*[[2002年]]: [[ノルウェー]]の仲介によって、政府はLTTEとの停戦に合意した。その後、日本も仲介に乗り出す。
*[[2004年]]3月: LTTEの東部方面司令官であった{{仮リンク|ビニャガマムーシ・ムラリタラン|en|Vinayagamoorthy Muralitharan}}が同勢力を離脱、[[タミル人民解放の虎|カルナ派]]を立ち上げ。LTTEとの闘争状態に入る。
*2004年12月: [[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]の津波により沿岸部に死者3万人以上という大きな被害を受ける。
{{Wikinews|スリランカ大統領選、ラージャパクサ首相が辛勝}}
*[[2005年]]11月: [[マヒンダ・ラージャパクサ]]が大統領に就任。LTTEに対しては強硬姿勢を示す。
[[ファイル:Tractors. Jan 2009 displacement in the Vanni.jpg|thumb|260px|戦闘の激化により避難する人々]]
*[[2006年]]7月: LTTEが東部[[バッティカロア県]]にて政府支配地域への農業用水を遮断したことを理由に政府軍が空爆を実施。戦闘が再燃<ref name="W_trend200908">{{Cite web
|url = https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/W_trend/200908.html
|title = 現地リポート スリランカ—内戦終結
|work = アジ研ワールド・トレンド 2009年8月号 (No.167)
|author = 荒井悦代|publisher=[[日本貿易振興機構|ジェトロ]]|date=2009年8月
|accessdate = 2013-05-28
}}</ref>。
*[[2007年]]7月:政府軍が[[東部州 (スリランカ)|東部州]]におけるLTTE最後の拠点であった{{仮リンク|トッピガラ|en|Kudumbimalai}}を攻略、同州からLTTE勢力を一掃する<ref>{{Cite web
|url = http://www.reuters.com/article/2007/07/11/us-srilanka-capture-idUSCOL15933520070711
|title = Sri Lanka declares fall of rebel east, Tigers defiant
|publisher = [[ロイター]]
|language = 英語
|date = 2007-07-11
|accessdate = 2013-03-27
}}</ref>。
*2007年11月: LTTE本拠地である北部[[キリノッチ]]への空爆で、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口であった{{仮リンク|スッパヤ・パラム・タミルセルバン|en|S. P. Thamilselvan}}が死亡<ref name="W_trend200908" />。
*[[2008年]]1月16日: 政府はLTTEとの停戦合意を正式に破棄すると発表。
*[[2009年]]1月: 政府軍はLTTEの本拠地[[キリノッチ]]を2日に、最後の都市拠点[[ムッライッティーヴー]]を25日に制圧。
*2009年5月17日: ムッライッティーヴーの海岸部を残して、LTTEの実効支配地域のほぼ全てが政府軍に制圧される。LTTEは事実上壊滅状態に陥り、LTTE側も{{仮リンク|セルバラサ・パスマナサン|en|Selvarasa Pathmanathan|label=セルバラサ}}広報委員長が事実上の敗北宣言である戦闘放棄声明を発表した。5月18日には、LTTEの最高指導者[[ヴェルピライ・プラブハカラン]]議長の遺体が発見され、政府はLTTEの完全制圧と内戦終結を宣言した<ref name="W_trend200908" />。
== 脚注 ==
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