「スクウェア (ゲーム会社)」の版間の差分
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創業時に[[事業所]]を置いたのは、[[コーエー|光栄]]と同じ[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]][[日吉 (横浜市)|日吉]]だった。ここでは人材確保を目的に、40台もの最新[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を自由に使える会員制[[サロン]]を開設していた。かくしてすぐ目の前にある[[慶應義塾大学]]日吉キャンパスや、[[横浜国立大学]]、[[神奈川大学]]など[[横浜市|横浜]]周辺に[[キャンパス]]を置く[[大学]]の学生たちが出入りするようになる。その中からは同社で[[アルバイト]]を始め、そのまま正式入社した者もおり、同社の初期作品を手がけたスタッフには[[:Category:神奈川県の大学|神奈川県にある大学]]の出身者が多い。
創業から半年後の[[1984年]]春、サロンの会員から選ばれたメンバーと公募で集められた者、計10名のスタッフによる[[ゲームソフト]]開発が開始される。当初は[[日本電気|NEC]][[PC-8801|PC-8801シリーズ]]を中心としたパソコン用の[[アドベンチャーゲーム]]や[[ロールプレイングゲーム]]を主力商品とした。シナリオ面でも評価
[[1985年]](昭和60年)から[[任天堂]]とライセンス契約を結び[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]用ソフトを提供し始める。ファミコン市場への参入は開発スタッフからの要望に応えてのものだったという。当時のパソコンは機種ごとに独自仕様であり、後継機種であっても従来機のソフトが動かない事も多く、[[移植 (ソフトウェア)|移植]]にも新規開発と同等に労力を要したのに対し、ファミコンには内部仕様の変更はあれどハードの変更がなく、また移植の必要もないのでより腰を据えて開発に臨めるという理由からである<ref>[[辰巳出版]]刊『パソコンゲーム80年代記』(1990年5月発行)掲載のメーカーインタビューによる。</ref>。[[1986年]]には、ファミコン初の[[アクションRPG]]として『[[キングスナイト]]』を発表した。しかし実質、RPG要素の薄い従来型のシューティングゲームであり、販売本数も伸びなかった。その後もパソコンゲームメーカーと組んで[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]で多くのゲームを送り出す [[ディスク・オリジナル・グループ|DOG(Disk Original Group)]] ブランドを展開するなど意欲を見せるも、なかなかヒット作を出せずにいた。
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『ファイナルファンタジー』のヒットは同社に多大な利益をもたらした。『[[ファイナルファンタジーII]]』の発売と前後する時期、[[代々木]]で『ファイナルファンタジー』の[[キャラクターグッズ専門店|グッズショップ]]を展開した。このショップではスクウェアから[[ライセンス]]を得て各社が発行していた出版物等の他、イメージイラストを使用した[[マグカップ]]等オリジナルグッズも扱っていた。<!--余談だがこのショップの閉店後、その空いたテナントには僅かに遅れてショップ運営を開始した[[日本ファルコム]]の[[ファルコムショップ]]が入る事となる。-->
[[1992年]](平成4年)に宮本に代わり[[水野哲夫]]が社長に就任。[[ゲームボーイ]]用ソフトの開発を引き上げ、タイトルをスーパーファミコンに専念。ミリオンセラーを続々と叩き出し、株式店頭公開も行う。[[1995年]](平成7年)には本社を[[目黒区]]のアルコタワーに移転。同年は『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』
[[1996年]](平成8年)、水野に代わり[[武市智行]]が社長に就任。『[[トバルNo.1]]』で[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]に参入。そして翌[[1997年]](平成9年)に発売した『'''[[ファイナルファンタジーVII]]'''』は国内で400万本、全世界で1,035万本という売上を記録。しかし、同時期に任天堂と絶縁状態になり[[山内溥]]社長(当時)に[[ゲームボーイ]]でのソフトリリースを「死んでもさせるつもりはない」とまで言われるほど険悪な関係に陥る。(詳しくは[[スクウェア・エニックス#任天堂との関係]]を参照)。一方、[[1999年]](平成11年)に[[バンダイ]]から発売された、任天堂ゲームボーイのライバルとなる携帯ゲーム機[[ワンダースワン]]に参入し、同機種の売り上げに貢献。しかし、ゲームボーイの牙城は崩すことはできなかった。なお、2002年(平成14年)には和解して任天堂のゲーム機で再びソフトをリリースしている。
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