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近年の関東地方の戦国時代史研究の進展に伴い、享徳の乱以後の鎌倉府組織の分裂状況の中で、関東管領、またはそれと同義の職名を自称する動きがあったことが知られるようになった。
 
[[越相同盟]]の交渉が本格化した[[永禄]]12年([[1569年]])頃に、[[北条氏康]]によって書かれたとされる『北条氏康条書』(伊佐早文書所収)には、[[北条氏綱]](氏康の父)が古河公方足利晴氏の命を受け、国府台で[[小弓公方]][[足利義明]]を討ったことにより「依勲功官領職仰付」と記されている。これは[[国府台合戦]]の戦功により[[後北条氏]]が「古河公方より関東管領に任命された」と主張するもので{{Efn|[[天文 (日本)|天文]]9年([[1540年]])、足利晴氏は北条氏綱の娘の[[芳春院殿]]を娶って後北条氏と結び、山内上杉家と断交している。本来、鎌倉公方及び古河公方には関東管領の任命権がないことが問題となるが、氏綱の後妻・[[北の藤|北の藤]]は、室町将軍[[足利義晴]]の室・[[慶寿院]]の姉にあたる(氏綱を介して義晴と晴氏は義理の叔父甥の関係となる)ため、本来任命権を持つ将軍と無関係に任命が行われたとは考えにくい<ref>{{Citation|和書|author=長塚孝|chapter=氏康と古河公方の政治関係|editor=黒田基樹|title=北条氏康とその時代|publisher=戒光祥出版|series=シリーズ・戦国大名の新研究 2|date=2021-7|pages=245-246|isbn=978-4-86403-391-6}}</ref>。}}、ひいては、その後の後北条氏による[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]の古河公方擁立の正統性をも主張し、また関東管領上杉憲政及びその後継者である上杉輝虎(謙信)の関東管領としての正統性を否認する立場が窺える。一方で上杉氏側から見れば足利義氏の古河公方就任は、後北条氏が関東管領であることを前提にするものであって容認できず、代わりに関東管領上杉氏が擁立する古河公方が必要とされ、それが[[足利藤氏]]であったとされている。後北条氏関東管領論はこの後、越相同盟が成立し、古河公方足利義氏と関東管領上杉輝虎が相互承認されたことで、消滅したと考えられている。
 
また、享徳の乱で上杉氏と争い、その後の戦国期には後北条氏と争った[[安房国]]の[[里見氏]]も、関東管領を自称した形跡がある。里見氏が大檀那であった[[鶴谷八幡宮]]、及びその別当寺であった[[那古寺]]に奉納された[[棟札]]には、古河公方が「鎮守府将軍源朝臣」、里見氏当主は「副帥源○○(当主名)」と記されている。現在知られている同様の棟札は7通であるが、特に注目されるのは享禄2年([[1529年]])に「副帥」源義豊([[里見義豊]])によって那古寺に納められた棟札である。義豊が禅僧の[[玉隠英璵]]と親交が深かったことは『[[玉隠和尚語録]]』([[東京大学史料編纂所]]所蔵)によって知られているが、同書では同じく交流を持っていた関東管領上杉氏を「関東副元師(帥)」と記している。里見氏が名乗っていた「(関東)副帥」とは、関東管領の異名である「関東副元帥」と同一のものであったと考えられ、里見氏もまた関東副帥=関東管領を自称していた可能性が強いとされている<ref>{{Citation|和書|author=和氣俊行|chapter=東国における「公方-管領体制」の止揚時期再考 -房総里見氏の政治思想からみる-|editor=中野栄夫|title=日本中世の政治と社会|publisher=吉川弘文館|year=2003|isbn=978-4-642-02829-5}}</ref>。