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大学教授、[[医師]]、[[弁護士]]、印刷会社経営者などの若手29名が集まって出資しあい、航空会社設立を目指す調査企画会社として、1996年11月14日、[[資本金]]1,430万円で札幌市に「北海道国際航空株式会社」を設立した。将来的に[[樺太]]など北海道や札幌市が交流を進めている「北方圏」諸都市への近距離国際線の就航を目指すとし、社名に「国際」の名を入れた。この時点では[[北海道経済連合会]]、経営者協会などの各団体や[[北海道電力]]などの大手企業をはじめとする道内経済界はこの構想に懐疑的な立場だった。また、[[旅行会社]]の[[エイチ・アイ・エス]](H.I.S.)も規制緩和をビジネスチャンスと捉え新規参入を目指しており、浜田らの動きとの合流もしくは共同関係を模索していたが、利益が中央に流れる[[本州]]資本ではなく、あくまでも道民主導による内発的な会社によって運営されることで利益が地元に還流される構造と、それによる地域振興を目指す立場のため、これに合流しなかった。なお、H.I.S.は、ADO設立2日前の1996年11月12日にスカイマークエアラインズ(現・[[スカイマーク]])(SKY)を設立している。
その後も地道に支援を取り付ける活動を進め、やがて、1996年12月の[[登別市]]議会をはじめ、[[1997年]]7月には[[北海道議会]]、最終的に北海道内の8割を超える165の[[地方公共団体|自治体]]から支援決議を受けたほか<ref name="al9903"/>、趣旨に賛同する個人や自治体、道内企業から多くの出資や融資を得た。1997年5月に元[[ヴァージン・アトランティック航空]]日本支社長の中村晃を代表取締役社長に迎え、[[1998年]]7月には公募により愛称を「AIR DO(エア・ドゥ)」に決定。1998年6月には定期航空運送事業の路線免許を[[運輸省]](当時)に申請・受理され、1号機が納入された。1998年7月、中村が会長に、浜田が社長に就任した。1998年10月26日に路線免許が交付され<ref>{{Cite news |title=エアドゥに路線免許 羽田-札幌1日3往復 12月20日から就航 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-27 |page=1 }}</ref>、同年11月から予約受付を開始した。
就航時点の株主構成は筆頭順に[[京セラ]]・[[盛田#レイケイ/ガラヒ産業|レイケイ]]([[盛田英夫]]の投資会社)・北海道国際航空支援持株会・[[東京海上日動火災保険|東京海上火災保険]]の順であった。一株[[株券|額面]]50万円であり、一般法人や個人からの出資も存在していた。「北海道国際航空支援持株会」は浜田と関わりのあるベンチャー企業・札幌デジタル・ラボラトリーの社長(当時)が代表を務める持株会であり、個人・法人から一口5万円単位で出資を募り、拠出資金から株式購入を行い支援していた。道内の自治体や地元金融機関は運転資金や設備投資費用(航空機導入費用)名目の融資で資金供給していた。
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=== 運航開始から破綻まで ===
[[ファイル:Counter of Hokkaido International Airlines in Haneda Airport.jpg|thumb|250px|羽田空港内のカウンター(2008年11月)]]
[[ファイル:Komatsu towing tractor 003.JPG|thumb|250px|トーイングトラクター(2009年1月、新千歳空港にて)]]1998年12月20日、羽田空港発新千歳空港
就航直後はテレビの[[情報番組]]や新聞で報道され、その話題性から搭乗率で一時優位に立ったが、翌[[1999年]]春に入ると早くも大手3社が事前購入割引運賃で同程度の価格まで引き下げて対抗した。その先陣を切ったのが、皮肉にもADOへ人材や羽田空港の設備・整備などを提供していたJALであった。
就航当初の座席管理システム([[CRS (航空)|CRS]])は簡易的なもので、受付チャネルも搭乗者が予約センターへ電話して予約を行った上で空港カウンターで決済・搭乗券を受け取るか、札幌本社と東京・[[浜松町]]の事務所か空港のカウンターへ直接赴いて手続きする手段しかないなど脆弱なものであった。販売提携する旅行会社は[[JTB]]系列とと道内の
さらに、JTBなどの大手旅行会社が販売する[[パッケージツアー]]にはほぼ組み込まれず、個人の[[自由旅行]]・[[帰省]]や[[出張]]用途の利用客に限られたほか、運賃の安さに惹かれて予約窓口に殺到した大量の電話を捌ききれず機会損失が発生したこと、[[マイレージサービス]]の非実施で[[リピーター]]の獲得が難しかったこと、運航本数の少なさなど[[マーケティング]]面での様々な要因が影響し、1999年の搭乗率は40 - 60 [[パーセント|%]]程度と低迷した。就航前の機体[[リース]]料やJALに支払っていた整備委託費などのコスト負担が解消しきれないなど、なかなか軌道に乗せることができなかった。
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