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この結果、得宗家の勢力が強化され、それに伴い御内人も[[鎌倉幕府|幕府]]内で権勢を持つようになった。そのため、将軍の従者である御家人は、御内人に対して「[[外様]]」と称されるようになる。ただし、御内人の多くは御家人を兼ねており、兼任していても特に支障はなかった。そもそも、[[工藤氏]]・[[安東氏 (曖昧さ回避)|安東氏]]<ref group="注釈">同じ御内人の中に、[[平氏|平]]姓安東氏([[安東忠家]]の流れ)、[[藤原氏|藤]]姓安東氏(安東光成の流れ)、室町時代中期以降に安東氏を称する[[安倍氏 (奥州)|安倍]]姓[[安東氏|安藤氏]]の三流があることに注意を要する。</ref>・[[諏訪氏]]・[[長崎氏]]・尾藤氏といった、幕政にも地位を得た著名な御内人は、みな御家人である。よって、辞書などではしばしば、「御内人は[[陪臣]]のため、身分が低かった」と記されているが、これは誤りである。<!--中には[[諏訪氏]]一族などのように、[[御家人]]でありながら、陪臣である筈の御内人へと転身を図るものまでいた。-->もっとも、泡沫の御家人が北条氏に臣従したり、最初から北条氏の郎党でしかなかった者が主家の伸張によって御家人身分を獲得した例が多いため、当初は北条氏と肩を並べ、あるいは元々はこれを遥かに凌駕する豪族であった御家人などからは蔑まれていた一面はある。
 
[[北条貞時]]の時代になると、御内人の筆頭である[[平頼綱]]は[[内管領]](御内頭人)と呼ばれるようになった(内管領とは幕府の役職ではない)。内管領は、1.得宗家の家令(得宗家[[公文所]]執事)という本来の職に加えて、2.幕府[[侍所]]の所司(次官)と、3.[[寄合衆]]のメンバーという3つの地位を兼ね、幕政に絶大な影響力を及ぼした。頼綱が有力御家人で得宗[[外戚]]の[[安達泰盛]]を[[霜月騒動]]で滅ぼして恐怖政治を敷いたり、[[北条高時]]の時代に[[長崎円喜]]・[[長崎高資|高資]]父子が専横を極めたように、内管領には執権や得宗を凌駕する者も現れた。日蓮は書状の中で平頼綱のことを「天下の棟梁」と書いている。滞る幕府への訴訟を早く有利に解決したい当事者達は、得宗権力を行使する御内人に賄賂を贈り、また得宗領内で貿易や金銭の貸し付け、土地の売買を行うなど、困窮していく御家人と対照的に、御内人は新たな富裕層となっていった。これはすなわち幕政の腐敗であり、御家人の不満が高まるとともに諸国で[[悪党]]が活動を活発化させ、倒幕へと結びついていった。
 
鎌倉幕府末期には、[[嘉暦の騒動]]の結果、御内人[[五大院宗繁]]の妹を母とする[[北条邦時|太郎邦時]]が得宗高時の後継となり、ついには得宗[[外戚]]の地位をも手に入れようとしていた。