「観音寺城の戦い」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
30行目:
まず義昭は近江[[甲賀郡]][[和田城 (近江国)|和田城]]へ赴いたが、その後より京都に近い[[野洲郡]][[矢島]]に仮御所を構えた。一時は近江の[[六角義治]]を頼ろうとしたようだが、三人衆と通じていることを擦知すると、[[若狭国|若狭]]の[[武田義統]]および[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]を頼った。越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]を頼った。この時仲介をしたのは[[明智光秀]]と言われている。
永禄10年([[1567年]])11月に[[正親町天皇]]から信長に[[綸旨]]が届いた。内容は尾張・[[美濃国|美濃]]の不
[[ファイル:Oda nobunaga (Kobe City Museum).jpg|thumb|織田信長像]]
正親町天皇からの綸旨をうけた信長は、上洛に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の[[立政寺]]に迎え入れると、永禄11年([[1568年]])8月5日に[[岐阜城]]を出発、[[馬廻り]]衆250騎を引き連れて、8月7日に[[佐和山城]]に着陣した。
|