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==来歴・人物==
[[1893年]](明治26年)[[2月1日]]、[[加賀藩|金沢藩]]の下級[[士族]]で[[明治維新]]以後は[[米穀商]]を営んでいた宮崎正行と佐やの三男(五人兄弟の末っ子)として、[[石川県]][[金沢市]][[材木町 (金沢市)|材木町]]に生まれる。[[1911年]](明治44年)金沢二中(現・[[石川県立金沢錦丘中学校・高等学校|石川県立金沢錦丘高等学校]])を卒業、石川県の官費留学生([[ロシア語]]研修生)に選ばれ、[[ハルビン]]の[[日露協会学]]でロシア語を学んだ後、[[モスクワ]]に留学。モスクワの[[シャニヤフスキー大学]]、[[ペテルブルク大学]]で学び、[[1914年]](大正12年)6月に帰国。同年7月、満鉄ロシア留学生に推薦され、シャニヤフスキー大学で[[社会学]]、[[1915年]]から[[ペテルブルク大学]]で[[政治経済学]]を学び、[[1917年]]5月に卒業した。ロシア留学中、[[東京日日新聞]]の依頼で「露西亜通信」を東京に送っていた。
 
1917年2月に[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が勃発し、大学は閉鎖され、飢餓と無秩序状態のなかの露都在住に不安を覚え、7月に帰国し、満鉄に入社。運輸部営業課を経て総務部調査課に勤務。[[1921年]](大正10年)6月、[[富山県]][[高岡市]]の医師吉崎郡太郎の二女、茂と結婚。[[1923年]](大正12年)5月、調査課ロシア係主任に就任。ソビエト視察旅行をしてソ連関係の文献を収集、整理、翻訳出版を行った。[[板垣征四郎]]、[[磯谷廉介]]、[[笠原幸雄]]、[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]といった軍人と交流していた。[[1925年]](大正14年)9月、職員資格審査委員、[[1930年]](昭和5年)9月、参事に就任。