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ところで安永6年(1777年)の春に一茶が故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく、継母のはつと腹違いの弟である仙六は懸命に働き、一家を盛り立てていた。実際、一茶が故郷を出た時分には3.71石であった持高が、約9~10石にまで増加し、柏原の中でも有力な農民となった。これは働き者であった継母のはつと、仙六の貢献が大きかったと見られている<ref>小林(2002)pp.60-61</ref>。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し、享和元年([[1801年]])には7.09石となっている。これは父弥五兵衛の病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためであると考えられるが、それでも一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟、仙六は小林家の財産は自らが増やしたものとの自負を持っていた<ref>小林(2002)pp.60-61、矢羽(2004)p.81</ref>。
一茶は安永6年に江戸へ奉公に出た後も、柏原の[[宗門改め]]時に作成される宗門帳にその名を残し続けていた。これは一茶が江戸奉公に、そして俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原に居住の実態が無いにも
一茶は享和元年(1801年)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。帰省の経緯ははっきりとしていないが、父、弥五兵衛の病気の知らせを受けてのことであったとの説がある。ただし一茶が父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の4月23日(1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている<ref>小林(1986)p.86</ref>。享和元年の帰郷は父の病気との関係は無く、本来の目的は帰郷しての後の生活維持のために一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始するためであったとの説もある<ref>渡邊(2006)pp.326-329</ref>。
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=== 俳諧師としての成功と帰郷 ===
==== 難航する遺産相続問題 ====
一茶は文化5年(1808年)12月、200日あまりもの間留守にしていた相生町5丁目の家に戻ってみたところ、留守中に大家は他人に家を貸してしまい、一茶が戻るはずであった家が無くなってしまった。困り果てた一茶はやむを得ず夏目成美を頼り、成美宅で年を越した。翌文化6年([[1809年]])成美宅で正月を迎えた一茶は、1月8日から立て続けに下総、上総方面に俳諧行脚の旅に出た。3月19日に房総行脚は一段落したものの、今度は4月5日に実家のある柏原へと向かった。この時の帰郷では、一茶はまず柏原へ向かったにも
その後一茶は精力的に北信濃一帯の俳諧愛好者のところを廻る。もちろん柏原には時々戻ったものの、いとこの徳左衛門宅、実家の隣であった園右衛門の家に泊まり、実家で過ごそうとはしなかった。それどころか5月18日には柏原で借家を借りるほどであった。これは弟との交渉が難航していたからであると考えられる。文化6年の帰郷もかなりの長期間に及んだ、一茶がいつ江戸に戻ったのかははっきりとしないが、9月末まで北信濃にいたことは確認されており、冬には江戸に戻っていた<ref>小林(1986)p.133、矢羽(1993)pp.54-56、矢羽(2004)p.111</ref>。
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愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつお乳をあげている、子をいつくしむ母の姿を詠んだ<ref>小林(1986)pp.208-209、矢羽(2004)pp.207-211</ref>。
ところがまもなく運命は暗転する。文政2年([[1819年]])5月末、さとは[[天然痘]]に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにも
{{Quotation|露の世は露の世ながらさりながら}}
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文政4年もおしつまった12月29日([[1822年]]1月21日)、一茶は一通の嘆願書を本陣の中村六左衛門利賓に提出した。嘆願の内容は、柏原宿の伝馬屋敷の住民たちの義務とされた伝馬役金に関するものであった。伝馬屋敷に住む者は、前述のように地子免除の特典を受けられる代わりに伝馬役の務めが課せられていた。一茶の時代になると一般的には伝馬役の役儀ではなく伝馬役金を納める形になっていた。一茶も享和元年(1801年)の父の死後、きちんと伝馬役金を納め続けていた<ref>小林(1986)pp.215-218、高橋(2017)pp.52-53、pp.125-126</ref>。
一茶の嘆願は、自らに課せられた伝馬役金の免除を願い出て、その分を小林家本家の弥市に払わせて欲しいという内容であった。弥市は伝馬役金を納めていないのにも
実際問題として弥市が伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶は遺産問題で弟、仙六側についた本家の弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書が出された原因のひとつと考えられている。また嘆願書の中に記されているように、柏原では鎮守の諏訪社の祭礼時に桟敷が設けられたが、有力者は桟敷に上がって祭礼を見物し、その他一般の見物客は立ち見であった。弥市は桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得に努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶は弥市、仙六が桟敷席であるのにも
過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章を書いたり、自らの困窮を理由に伝馬役金の免除を願い出る嘆願書に、本家の弥市を引き合いに出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情に駆られると抑えが効かなくなることがあるのは否めない。前述のように柏原宿の存亡を賭けた訴訟時に一茶は本陣の中村六左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市を貶めんとし、卑屈さが感じられる内容の嘆願書は評判が悪く、一茶の人物評価にマイナスとなった<ref>小林(1986)pp.218-219、矢羽(1993)pp.467-468、丸山(2000)p.30、高橋(2017)p.129</ref>。
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と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ<ref>小林(1986)pp.223-224、玉城(2013)pp.30-31</ref>。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖[[親鸞]]が唱えた、「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる、絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている<ref>加藤(2001)pp.346-348、伊藤(2003)p.3、矢羽(2004)pp.192-193</ref>。
2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は[[痛風]]であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにも
妻を失った後、一茶は、
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と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った<ref>加藤(2001)pp.350-351、玉城(2013)p.341</ref>。
ところで菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにも
結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日([[1824年]]1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった<ref>小林(1986)p.228、矢羽(2004)p.144</ref>。
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9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶であったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川([[新潟県]][[妙高市]])の浄善寺の住職に、急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている<ref>小林(1986)pp.230-231、小林(2002)p.168</ref>。
結果として浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにも
弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、[[飯山藩]]士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪は飯山藩士田中義条の娘であったと推定されている<ref>矢羽(1995)pp.175-177、p.182、小林(2002)p.168、p.170</ref>。
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明治後期以降、一茶の句は俳句界の枠を超え、多くの人々に親しまれるようになった。そして芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価も固まっていく。しかし近代俳句の主流が客観写生から精密かつ静的な花鳥諷詠へと移行していく中で、俳句界からは一茶の句は異端視され、一部を除いてその影響力は小さかった。近代俳句の中で一茶の影響を指摘できるのは[[村上鬼城]]である<ref group="†">栗山(1976)pp.294-296では、近代俳句の中でオノマトペを上手く用いたとされる[[川端茅舍]]と一茶の句との比較検討がされている。</ref>。鬼城は生活苦と身体的な障害に苦しみながら、俳壇の主流とは大きく異なる優れた境涯句を詠み続けた。一茶の句と鬼城の句には類似点が多く指摘され、一茶の作風が鬼城に大きな影響を及ぼしたものとみられている<ref>栗山(1976)pp.308-310、丸山(2000)p.70</ref>。
いずれにしても一茶には高い知名度があり、更には芭蕉、蕪村と並ぶ傑出した個性、独自の俳風が認められているのにも
=== 批判的な意見 ===
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