「扇谷上杉家」の版間の差分
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[[文安]]4年([[1447年]])には[[足利成氏]]が下向して鎌倉公方が再興されるが、[[宝徳]]2年([[1450年]])には鎌倉公方・成氏と山内[[上杉憲忠]]が対立し([[江の島合戦]])、成氏はこの時に山内家[[家宰]]・[[長尾景仲]]と扇谷家家宰・[[太田資清|太田道真]]を非難している。
鎌倉公方と関東管領の対立は一時的に和睦が成立するが、[[享徳]]3年([[1454年]])鎌倉公方・成氏に山内上杉憲忠が[[暗殺]]され、全面戦争となる([[享徳の乱]])。足利成氏は[[古河市|古河]]を拠点とし([[古河公方]])、第8代[[征夷大将軍|室町将軍]]・[[足利義政]]は関東管領方に加担して異母兄の[[足利政知]]を新たな鎌倉公方として送り込
[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])には山内家家臣・[[長尾景春]]が主君[[上杉顕定]]に反乱を起こし山内上杉顕定を[[上野国|上野]]に追い、文明10年([[1478年]])には長尾景春に味方した古河公方・成氏と上杉顕定の間に和睦が成立する。[[長尾景春の乱]]は扇谷家の領国武蔵において展開されているが、扇谷家家宰[[太田道灌]]は乱の平定を主導しており、扇谷家でも山内家と同様に当主と家宰との対立関係が発生し、文明18年([[1486年]])に道灌は主君[[上杉定正]]により暗殺されている<ref>なお、長尾景春の乱と道灌暗殺に共通する主君と家宰との対立関係の背景には、室町時代には主君が在京奉公し領国経営は家宰が担当する役割分担があったが、戦国期に関東情勢が乱国化したことにより主君自らが在国して領国経営にあたったことから家宰との主導権争いが生じていたことが考えられている(丸島和洋「関東戦国時代の幕開け」『別冊太陽戦国大名』2010)。</ref>。
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