「扇谷上杉家」の版間の差分
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鎌倉公方と関東管領の対立は一時的に和睦が成立するが、[[享徳]]3年([[1454年]])鎌倉公方・成氏に山内上杉憲忠が[[暗殺]]され、全面戦争となった([[享徳の乱]])。上杉氏援軍の[[今川範忠]]に鎌倉を攻略された成氏は[[古河市|古河]]に拠点を移し[[古河公方]]と呼ばれた。第8代[[征夷大将軍|室町将軍]]・[[足利義政]]は成氏を室町幕府への反逆とみなし関東管領方に加担して異母兄の[[足利政知]]を新たな鎌倉公方として送り込んだが、成氏の勢力が強く政知は鎌倉へ入れず[[伊豆国|伊豆]]の堀越にとどまったため[[堀越公方]]と呼ばれた。堀越公方・政知並びその側近・[[渋川義鏡]]との対立<ref>堀越公方は伊豆国を本拠地としていたが、自身や渋川義鏡をはじめとする京都から下向した家臣の基盤として相模国などの近隣の在地領主の土地に進出しようとしたため、扇谷家と対立した(木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館、P324-325)。</ref>はあったものの、扇谷家は[[相模国|相模]]を中心とする[[戦国大名]]として成長した。享徳の乱において扇谷上杉氏は[[上杉持朝]]が家宰太田道真に命じて[[川越城|河越城]]、[[江戸城]]、[[岩槻城]]を築城させて武蔵の分国化の足がかりを築き<ref>但し岩槻城については、太田道真・道灌父子でなく[[成田正等]]による築城説が今は主流である。</ref>、河越に拠点を移した。
[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])には山内家家臣・[[長尾景春]]が主君[[上杉顕定]]に反乱を起こし([[長尾景春の乱]])山内上杉顕定を[[上野国|上野]]に追ったが、文明10年([[1478年]])には長尾景春に味方した古河公方・成氏と上杉顕定の間に和睦が成立する。[[長尾景春の乱]]は扇谷家の領国武蔵において展開され、扇谷家家宰[[太田道灌]]が乱の平定を主導してその名を大いに上げたが、そのため扇谷家でも山内家と同様に当主と家宰との対立関係が発生し、文明18年([[1486年]])に道灌は主君[[上杉定正]]により暗殺されている<ref>なお、長尾景春の乱と道灌暗殺に共通する主君と家宰との対立関係の背景には、室町時代には主君が在京奉公し領国経営は家宰が担当する役割分担があったが、戦国期に関東情勢が乱国化したことにより主君自らが在国して領国経営にあたったことから家宰との主導権争いが生じていたことが考えられている(丸島和洋「関東戦国時代の幕開け」『別冊太陽戦国大名』2010)。</ref>。
享徳の乱収束後は関東の領有をめぐり山内家との対立が顕在化し、堀越公方・政知を擁した山内家に対し扇谷家は古河公方・成氏に接近して、両家は衝突する([[長享の乱]])。扇谷家と同盟関係にあった古河公方は分裂により衰亡していったが、山内家方も相模の領地が扇谷家と協力関係にあった伊勢宗瑞([[北条早雲]])に次第に切り取られて支配権を失っていった([[大森藤頼]]の[[小田原城]]等。ただし藤頼は、山内上杉に寝返っていたため、扇谷上杉家が宗瑞に派兵を依頼したものを、宗瑞がそのまま領国化したものである)。[[上杉朝良]](上杉定正の甥で次の扇谷家当主)は伊勢宗瑞と宗瑞の甥で宗瑞が後見役をしていた[[駿河国|駿河]]守護[[今川氏親]]の軍事支援で[[立河原の戦い]]は勝利するものの、自らは積極的な対応策を打たず河越城を包囲されて扇谷側の降伏の形で長享の乱は収束する。
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