「江梨鈴木氏」の版間の差分
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|根拠地=伊豆国
|人物=[[鈴木繁宗]]<br/>[[鈴木繁定]]
|支流=
}}
'''江梨鈴木氏'''(えなしすずきし)は、日本の[[武家]]のひとつ。'''伊豆鈴木氏'''とも。[[本姓]]は[[穂積氏]]。家系は穂積姓鈴木氏の本宗家である[[藤白鈴木氏]]の支流の一族で、[[伊豆国]]に下向した[[鈴木繁伴]]を初代とする。[[足利氏満]]に招かれて伊豆・[[相模国]]の船大将を務め、後に[[後北条氏]]に属して伊豆の江梨五ヶ村を支配した。[[通字]]は「繁」。
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[[明応]]2年([[1493年]])、伊豆に[[北条早雲]]が侵攻してくると、当主の[[鈴木繁宗]]([[兵庫助]])は[[堀越公方]]から離れていち早く馳せ参じ、堀越公方[[足利茶々丸]]攻めに参加した。その後は[[後北条氏]]配下の[[伊豆水軍]](北条水軍)を率いる武将のひとりとして、伊豆衆21家のひとつに数えられた。また、江梨鈴木文書に「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」とあり、早雲の伊豆討ち入り前後の忠節により江梨郷が不入の特権を得ている。
伊豆国[[稲取|稲取村]]にも江梨鈴木氏の一族とされる鈴木氏がおり、鈴木兵庫助の子・孫七郎繁時を祖とし、ともに後北条氏に仕えたという。
『江梨航浦院開基鈴木氏歴世法名録』{{Full citation needed|date=2017年6月}}によると、[[明応]]7年([[1498年]])に発生した[[明応地震]]の際、江梨村にも津波が押し寄せて多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝は家屋とともに流されたと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
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繁朝の三男・[[鈴木繁定]]は[[北条氏政]]から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど[[駿河湾]]沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており、[[川越城]]宇佐曲輪に屋敷があったとされる。
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]が後北条氏を攻めた[[小田原征伐]]で江梨鈴木氏は後北条氏に従って戦った。しかし繁朝の次男・繁精が[[韮山城]]で戦死、繁朝の長男繁光の子・繁脩も[[小田原城]]で戦死した。鈴木繁脩の弟である[[鈴木繁氏]]は家臣らと[[陸奥国]]葛巻村高野城(現・[[岩手県]][[葛巻町]]小屋瀬)に落ち
== 歴代当主 ==
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