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お決まりの軽口さえ言わずに
 
ーハドリアヌス辞世の詩([[ローマ皇帝群像|『ヒストリア・アウグスタ』]]ハドリアヌス伝25.9)</blockquote>後継者の選定を終えたハドリアヌスだったがその後も病状は悪化し続けた。[[動脈硬化症|動脈硬化]]等の症状に見舞われて[[儀式]]や[[魔術]]に傾倒するようになり、周囲に自殺幇助を懇願したが誰一人命を奪う事が出来ず、苦しみに苛まれ続けた末に[[138年]]7月10日、バイアの地でアントニヌスに看取られながら62歳で世を去った<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝25,6-7.</ref>。最後には治療を放棄して不摂生な生活を送り、'''「無数の医者どもが君主を葬ったのだ」'''と叫びながら息を引き取ったともされる<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、69,22,4.</ref>。遺体は[[ポッツオーリ|プテリオ]]に埋葬され後に遺灰はローマへと移送され、既に故人となっいた妻サヴィナの遺灰と共に葬られた{{sfn|ストラウフ|p=313-315}}。
 
ハドリアヌスの死後、その[[神格化]]が提案された際には[[元老院]]から強い反発が生じ、後継者であったアントニヌスの説得とハドリアヌスを慕う兵士達の反乱への恐怖によって辛うじて承認された<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』70,1,2.</ref>。
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ハドリアヌスはしばしば民衆に混ざって[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]を利用したが、かつて自身の指揮下にいた退役兵が体を拭かせるための[[奴隷]]を所有していないため壁に背中をこすりつけて垢を落としているのを見つけ、[[奴隷]]と賜金を与えた。これを知った老いた市民達が恩顧に預かろうと浴場の壁に背中をこすりつけるようになり、それを見たハドリアヌスは市民達に互いの背中を磨くよう指示した<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝17,6-7.</ref>。また、[[スパイ|密偵]]に監視させていた人物が[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]に入り浸って家に帰らない事を妻が心配していると知り、後日その人物に家庭を顧みるよう叱責したという<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝11,6.</ref>。
*'''統治者の資質'''
旅の途中ある女性から訴えを受けた際、当初は時間がないと相手にしなかったが、「ならば[[ローマ皇帝|元首]]なぞおやめになるがい!」と言われて訴え を聞き入れたという<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,6,3.</ref>。また、処刑したセルウィアヌスを高く評価していたとされ、宴席で出席者に「ローマを統べるに相応しい者を10人挙げよ。いや、やはり9人でよい、一人は分かっている、セルウィアヌスだ」と述べたという<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,17,3.</ref>。
*'''議論と反論'''
[[哲学]]に関する議論を好んだが、[[哲学者]][[:en:Favorinus|ファヴォリヌス(英語版)]]はハドリアヌスに対して持論を撤回した事を後日、友人に指摘された際「30もの[[ローマ軍団|軍団]]を従えているお方の意見は何に私の意見なんぞより増して遥かに正しいものなのだよ」と皮肉ったという<ref>『ヒストリア・アウグスタ』ハドリアヌス伝15,11-13.</ref>。また、[[ウェヌスとローマ神殿|ウェヌスとローマの神殿]]建設の際に[[建築家]][[ダマスカスのアポロドーロス|アポロドロス]]に意見を求めたところ「カエサルの案では天井が低すぎて[[女神]]が身動き取れませんな」と小馬鹿にされて激怒し、[[ダマスカスのアポロドーロス|アポロドロス]]を処刑したと言い伝えられている<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』69,4,1-6.</ref>。
*'''髭を生やした元首'''
ハドリアヌスの[[彫像]]にはそれまでの[[ローマ皇帝|元首]]の[[彫像]]に無かった髭が描かれるようになり、この傾向は以後の[[ローマ皇帝|元首]]にも受け継がれて[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]まで続く事となる。ハドリアヌスが髭を蓄えるようになったのは髭を生やす事が美徳だと考えられていた[[ギリシャ|ギリシア文化]]への敬意のためだったとされ、同時代のローマ人エリート層の間でも髭を生やす習慣が急速に広まっていった{{sfn|ストラウフ|p=271}}{{sfn|南川|p=125}}。