「日本の仏教」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
リンク追加 |
Aoshimayouichi (会話 | 投稿記録) |
||
73行目:
『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、[[物部尾輿]]と[[中臣鎌子]]ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、[[蘇我稲目]]は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を[[寺院|寺]]として仏像を拝んだ。その後、[[疫病]]が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、[[国津神]]の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を[[難波の堀江]]に捨てた。
その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達([[物部守屋]]と[[蘇我馬子]])の代にまで持ち越され、[[
[[天武天皇]]は[[大官大寺]](後の大安寺)を建て、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建てた。このような動きは[[聖武天皇]]の時に頂点に達した。
|