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李吉彦 (会話 | 投稿記録)
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『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、[[物部尾輿]]と[[中臣鎌子]]ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、[[蘇我稲目]]は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を[[寺院|寺]]として仏像を拝んだ。その後、[[疫病]]が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、[[国津神]]の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を[[難波の堀江]]に捨てた。
 
その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達([[物部守屋]]と[[蘇我馬子]])の代にまで持ち越され、[[用明天皇丁未の乱]]の後継者を巡る争いで物部守屋滅亡され衰退するまで続いた。この戦い[[聖徳太子]]一時的に蘇我氏側不利となるが、馬子側に参戦していた[[聖徳太子]]が[[四天王]]に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から[[摂津国]]に[[四天王寺]]([[大阪市]][[天王寺区]])を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は[[法興寺]](別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は『[[法華経]]』・『[[維摩経]]』・『[[勝鬘経]]』の三つの経の解説書(『[[三経義疏]]』)を書き、『[[十七条憲法]]』の第二条に、「篤(あつく)く[[三宝]]を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。
 
[[天武天皇]]は[[大官大寺]](後の大安寺)を建て、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建てた。このような動きは[[聖武天皇]]の時に頂点に達した。