「佐藤栄作」の版間の差分
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この報道に対して次男の[[佐藤信二]]は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の[[平和主義|平和主義者]]だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞したとき『佐藤個人ではなく、国がもらったものだ』と語っている」とコメントした<ref name="an"/>。ただし上記の通り、2009年(平成21年)に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年(平成22年)10月に『[[NHKスペシャル]] 核を求めた日本』において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみに出た<ref>『核を求めた日本』は、2010年10月3日夜に放送</ref>。[[西尾幹二]]は、佐藤が核武装論から変節し、「アメリカに日本国を売って」ノーベル平和賞を得たことが日本の[[保守]]政権を堕落させた、と批判している<ref name="nishio">『三島由紀夫の死と日本の核武装』、[[WiLL (雑誌)|WILL]] [[2011年]]2月号</ref>。
佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者([[高坂正堯]]{{refnest|group="注釈"|高坂は、佐藤ブレーン(前述の通り受賞記念の演説に際しても、原稿草案の助言をする
この1974年(昭和49年)11月19日に[[元赤坂]]の[[迎賓館]]で行われた佐藤・キッシンジャー会談の具体的内容は、佐藤がキッシンジャーに、「'''もし可能なら、核兵器の先行使用の放棄を話し合うため、[[核保有国の一覧|核保有5か国]]が集まるよう受賞講演で提案しようと考えている'''」と述べ、すべての国が核兵器の先行使用を放棄する方向への提起を授賞式講演「核時代の平和の追求と日本」に盛り込みたい意向を伝えたが、キッシンジャーは、「'''米国はそうした話し合いへの参加を拒んでいる唯一の国だ'''」と答え、「'''米国が核兵器の先行使用を放棄したら、それは日本にとって危険だ'''」として、[[ソビエト連邦|ソ連]]と中国の軍事的脅威を理由に拒んだ<ref name="houki">「『核の先行使用』放棄探る――佐藤元首相が提案、米は拒絶」(朝日新聞、2016年3月14日号 1面・3面)</ref>。
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7代目の佐藤嘉津馬は[[安永]]8年(1779年)に12歳で病死する。佐藤家はこの7代目まで大内町御堀(現・[[山口市]]南部)の周辺に住んだ。嘉津馬夭折のあと、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
10代目の曽祖父・[[佐藤信寛|寛作信寛]]は[[長州藩]]士として御蔵元本締役、大検使役
11代目の祖父・信彦は[[山口県議会]]議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。信彦の妻・みねは[[徳山藩]]士[[国広治左衛門]]の娘である。信彦の弟・[[鼓包武]]は、[[大村益次郎]]に兵学を学び、[[西南戦争]]でも活躍した。[[日清戦争]]では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。
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