削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{OtherusesOtheruseslist|[[安芸国]][[戦国大名]] [[長州藩|長州藩藩主家]] [[華族]][[公爵|公爵家]]の毛利氏|[[その他]]の毛利氏|毛利氏 (曖昧さ回避)}}
{{日本の氏族
|家名= 毛利氏
|家紋= Ichimonjimitsuboshi.png
|家紋名称= 一文字三星(長門星){{Sfn|沼田頼輔|1926|p=324}}
|本姓= [[大江氏]][[毛利季光|季光流]]
|家祖= [[毛利季光]]
|種別= [[武家]]<br />[[華族]]([[公爵]])
|出身地= [[相模国]][[愛甲郡]][[毛利荘|{{lang|zh-hant|毛利&#x838A;}}]]<ref group="注釈">毛利庄とも。神奈川県[[愛川町]]から[[厚木市]]<small>([[小鮎 (厚木市)|小鮎]]([[小鮎村|-村]][[飯山村|飯山]];[[飯山 (厚木市)|飯山]])</small>・[[荻野 (厚木市)|荻野]]<small>([[荻野村 (神奈川県)|-村]]; [[上荻野]]、[[中荻野]]、[[下荻野]])</small>・[[南毛利]]<small>([[南毛利村]];[[毛利台]]、[[森の里 (厚木市)|森の里]]などの地名が残る)</small>にかけて。神奈川県厚木市[[下古沢]]の[[三島神社_(厚木市下古沢)|{{lang|zh-hant|三島&#xFA19;&#xFA4C;}}]]に、「{{lang|zh-hant|毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地}}」の碑がある。</ref>
|根拠地= [[越後国]][[佐橋荘]][[南条 (柏崎市)|南条]]<br />[[安芸国]][[高田郡]][[吉田荘]]<ref group="注釈">[[広島県]][[吉田町 (広島県)|吉田町]]吉田</ref><br/>安芸国[[広島城]]<br/>[[長門国]][[萩市|萩]]<br/>[[周防国]][[山口市|山口]]<br/>[[東京府]][[東京市]]<br/>[[山口県]][[防府市]]
|人物= [[毛利元就]]<br />[[毛利隆元]]<br />[[毛利輝元]]<br />[[毛利敬親]]<br/>[[毛利元徳]]
|支流= [[徳山藩|徳山]]毛利家{{small|(武家・[[子爵]])}}<br />[[長府藩|長府]]毛利家{{small|(武家・子爵)}}<br />[[清末藩|清末]]毛利家{{small|(武家・子爵)}}<br/>[[右田毛利家|右田]]毛利家{{small|(武家・[[男爵]])}}<br/>[[吉敷毛利家|吉敷]]毛利家{{small|(武家・男爵)}}<br />[[桂氏#大江姓桂氏|桂氏]]{{small|(武家・[[公爵]])}}<br/>[[安芸福原氏|福原氏]]{{small|(武家・男爵)}}<br/>[[越後北条氏]]{{small|(武家)}}など
}}
'''毛利氏'''(もうりし)は、[[武家]]・[[華族]]だった[[日本]]の[[氏族]]。[[本姓]]は[[大江氏]]。[[家紋]]は一文字に三つ星(一文字三星){{Sfn|沼田頼輔|1926|p=324}}。[[大江広元]]の四男で[[相模国]]毛利荘を領した[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]・[[毛利季光]]を祖とし、子孫は[[越後国]]と[[安芸国]]に分かれた。安芸毛利氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[西国]]の覇者と呼ばれた[[戦国大名]][[毛利元就]]を出して安芸を中心に[[中国路|中国地方]]([[山陽道]]・[[山陰道]])10カ国を領し、[[江戸時代]]には[[長州藩]]主として[[長門国]]・[[周防国]]を領し、[[明治]]後は華族の[[公爵]]家に列している<ref name="nipo">{{Kotobank|毛利氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。本稿では安芸毛利氏を中心に解説する。
 
 
__TOC__{{-}}
== 概要 ==
[[鎌倉幕府]][[政所]][[別当]]・[[大江広元]]の四男で御家人の[[毛利季光]]を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の[[相模国]][[愛甲郡]][[毛利荘]](もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を[[本貫]]としたことによる。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。
21 ⟶ 23行目:
安芸毛利氏は、経光から吉田荘を譲与された四男・時親が、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の初期に[[吉田郡山城|吉田郡山]]に移住して居城を構えたのに始まる<ref name="nipo"/>。吉田荘に移った安芸毛利氏は、室町時代に安芸の有力な[[国人|国人領主]]として成長し、[[山名氏]]および[[大内氏]]の家臣として栄えた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[毛利元就]]が出ると一代で大内氏や[[尼子氏]]を滅ぼしてその所領を獲得し、最盛期には[[山陽道]]・[[山陰道]]10か国と[[九州北部]]の一部を領国に置く最大級の[[戦国大名]]に成長した<ref name="nipo"/>。元就の息子たちが養子に入った[[吉川氏]]と[[小早川氏]]は戦国期に毛利本家の重臣として活躍し「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた<ref>{{Kotobank|小早川氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref><ref>{{Kotobank|吉川氏|2=旺文社日本史事典 三訂版}}</ref>。
 
元就の死後、[[]]の[[毛利輝元]]は将軍・[[足利義昭]]を庇護し、[[織田信長]]と激しく争った。だが、信長の死後、[[豊臣秀吉]]に従属して、[[安芸国|安芸]]ほか8か国で112万石<ref>領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」) </ref>を朱印状で安堵された<ref name="nipo"/>。また、本拠を[[吉田郡山城]]から[[広島城]]に移す<ref name="nipo"/>。輝元はその後、[[五大老]]に就任する<ref name="britanicca">{{Kotobank|毛利氏|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
 
しかし、慶長5年([[1600年]])、輝元が[[関ヶ原の戦い]]で西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は[[周防国]]・[[長門国]]の2か国36万9000石に[[減封]]された<ref name="britanicca"/>。慶長9年([[1604年]])に輝元は長門国[[阿武郡]]の[[萩城]]に入城した<ref name="britanicca"/>。以降江戸時代を通じてここを居城とした(ただし幕末に[[毛利敬親]]が藩庁を周防国の山口に移している<ref name="nipo"/>)。[[国主]](国持ち)の[[外様大名]]として雄藩の一つに数えられた。支藩として[[長府藩]]や[[徳山藩]]、[[清末藩]]があった<ref name="britanicca"/>。吉川家の[[岩国藩]]は実質的には他の支藩と同様領地の自治が認められていたが、公的には長州藩主毛利家の家臣として扱われていたため、その領地は「岩国領」と称されていた<ref>{{Kotobank|吉川氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
 
江戸時代末期には、藩主[[毛利敬親]]の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、[[明治維新]]を成就させる原動力となった。維新後に[[華族]]となり、長州藩の毛利宗家は[[公爵]]{{sfn|小田部雄次|2006|p=322}}、支藩の毛利家3家は[[子爵]]に列し{{sfn|小田部雄次|2006|p=338}}、毛利宗家の分家の[[毛利五郎]]家{{sfn|小田部雄次|2006|p=345}}および一門家臣だった[[右田毛利家]]と[[吉敷毛利家]]が[[男爵]]に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=351/353}}。また[[江戸時代]][[wikt:初期|初期]]に無嗣で[[改易]]されていた小早川家が[[毛利元徳]]の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=340}}。明治期には毛利公爵家は[[島津氏|島津公爵家]]、[[前田氏|前田侯爵家]]に次ぐ富豪華族だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=62/65}}。
 
== 歴史 ==
32 ⟶ 34行目:
[[毛利季光]]は[[大江広元]]の四男で[[相模国]]毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、[[アメノホヒ|天穂日命]]を初代とするため、季光は39代とされている。
 
だが、季光は[[北条時頼]]の義父であったにもかかわらず[[三浦泰村]]と結んで[[北条氏]]に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった([[宝治合戦]])。越後にいた季光の四男[[毛利経光|経光]]は合戦に関わらず、その[[家系]]が残った。同族の[[長井氏]]の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男[[毛利基親]]に[[越後国]][[刈羽郡]]佐橋荘南条を譲り、四男[[毛利時親|時親]]に安芸国吉田荘を譲った。
 
毛利時親は[[鎌倉時代]][[wikt:後期|後期]]、京都の[[六波羅探題]]の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった[[内管領]]の[[長崎円喜]]が[[執権]][[北条高時]]に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の[[河内国]]へ隠棲する。
 
[[元弘]]3年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]の討幕運動から[[元弘の乱]]が起こり、[[足利尊氏]]らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、[[後醍醐天皇]]により開始された[[建武の新政]]からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された<ref>『大日本史料』6編2冊849頁。建武2年12月26日条。「毛利文書」</ref>。
43 ⟶ 45行目:
[[File:Mori motonari 2.png|thumb|200px|[[毛利元就]]]]
[[安芸国]]の[[国人]]として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、室町時代中期には庶家同士の争いが起きたものの、安芸国内では屈指の勢力になった。しかし、[[毛利煕元]]、
[[毛利豊元]]、[[毛利弘元]]の時代には[[山名氏]]・[[大内氏]]という大勢力の守護に挟まれ去就に苦労することになる。[[毛利興元]]、[[毛利幸松丸]]の代には、大内氏と[[尼子氏]]とが安芸を巡って争い、安芸国内の[[国人]]同士の争いも頻発した。
 
毛利氏は[[家長|当主]][[死亡|早死]]にが続いたこともあり勢力は一時衰えたが、興元の[]]である[[毛利元就]]が当主となると、元就はその知略を尽くして一族の反乱や家臣団最大派閥の井上氏の粛清、[[石見国]]の[[高橋氏]]など敵対勢力を滅ぼし<ref>『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」</ref>、さらに有力国人である安芸国の[[吉川氏]]に次男である[[吉川元春|元春]]を、[[小早川氏]]に三男の[[小早川隆景|隆景]]を養子に入れて家を乗っ取るなど勢力を拡大する。元就は長男の[[毛利隆元]]に家督を譲ったのちも戦国大名として陣頭指揮を続け、[[大内義隆]]に[[謀反]]、[[大内氏]]を事実上乗っ取った[[陶晴賢]]を弘治元年([[1555年]])の[[厳島の戦い]]で破った<ref>『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」</ref>。
 
弘治3年([[1557年]])、晴賢の傀儡であった[[大内義長]]を攻め滅ぼし<ref>『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」 </ref>、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北部九州に侵入し、[[筑前国]]や[[豊前国]]の[[秋月氏]]や高橋氏を味方につけ<ref>『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」</ref><ref group="注釈">毛利氏に内応した筑前[[秋月文種]]、[[筑紫惟門]]、[[原田隆種]]等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。</ref>、[[大友氏]]とも争った。同3年、吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家で支える体制が成立し領国支配を盤石なものとし、これを後世'''[[毛利両川]]'''体制と呼ばれることになった。永禄3年([[1560年]])には隆元が幕府から安芸[[守護]]に任じられている<ref>『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」「新裁軍記」</ref>。
 
永禄6年([[1563年]])、隆元が早世し<ref>『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」</ref>、長男の[[毛利輝元]]が若くして家督を継ぐと、元就・元春・隆景が後見した。永禄9年([[1566年]])に輝元は元就とともに仇敵の尼子氏を滅ぼして<ref> 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」 </ref>、中国路(安芸・[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]・[[備中国|備中]]・[[備後国|備後]]・[[因幡国|因幡]]・[[伯耆国|伯耆]]・[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]・[[石見国|石見]])を領有し、西国随一の大名となった。さらに旧主家の残党である[[大内輝弘]]を退け([[大内輝弘の乱]])、尼子氏の残党にも勝利した。
 
さらに、輝元は[[織田信長]]に追放された将軍・[[足利義昭]]を庇護し、[[天下統一]]を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となり、覇を争った。だが、天正10年([[1582年]])に信長が[[本能寺の変]]により自害し、[[中国攻め]]の織田軍の指揮を執る[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]は[[中国大返し]]のために毛利家と和睦を結んだ{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=292}}<ref>『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は[[豊臣秀吉]]に信長死去に伴う弔意を伝えている。</ref><ref>『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は[[蜂須賀正勝]]に物を贈り、[[山崎の戦い]]の戦勝を祝った。</ref>。
57 ⟶ 59行目:
毛利輝元は秀吉に臣従し、天正13年([[1585年]])に[[安芸国]]、[[備後国]]、[[周防国]]、[[長門国]]、[[石見国]]、[[出雲国]]、[[隠岐国]]に加え、[[備中国|備中]]・[[伯耆国|伯耆]]両国のそれぞれ西部を安堵された{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=292}}。[[朱印状]]における毛利家の総石高は112万石であり{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=292}}、ほかに四国と九州で[[安国寺恵瓊|安国寺]]・[[小早川氏|小早川]]が輝元とは別に所領を得た。
 
* 天正19年([[1591年]])に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録
「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」<ref>『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)</ref>
 
内訳は
* 2万石 寺社領
* 7千石 京進方(太閤蔵入地)
* 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
* 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
* 隠岐国 羽柴吉川侍従
* 10万石 輝元国之台所入
* 8万3千石 京都台所入
* 73万4千石 軍役  都合112万石<ref>『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項</ref>
 
[[豊臣秀吉]]の天下統一後、輝元は[[吉田郡山城]]から地の利の良い瀬戸内海に面した[[広島城]]を築城し、本拠を移した<ref>『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」</ref>。また、[[文禄]]4年([[1595年]])の秀次事件ののち、輝元は[[豊臣政権]]の[[五大老]]の一人となった{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=292}}。
74 ⟶ 76行目:
慶長3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、政権内で台頭する[[徳川家康]]と[[五奉行]]の[[石田三成]]の対立が深まった{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16/294}}。翌慶長4年([[1599年]])に三成が失脚すると権力を増大させた家康が毛利氏の所領問題に介入したため、毛利氏と家康の対立関係が生じた{{Sfn|光成|2016|p=252}}。
 
[[福島正則]]や[[黒田長政]]ら[[豊臣氏|豊臣恩顧]]の有力大名が家康の味方に付く中で毛利輝元の政権内の立場も微妙なものとなっていった{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。1600年(慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]にあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて[[大阪城]]に入り、[[西国]][[大名]]に回状を送り、徳川方の大名と戦うことを求めた<ref name="笠谷2022">{{Cite book|和書|author=笠谷和比古|authorlink=笠谷和比古|title=論争 関ヶ原合戦|series=新潮選書|year=2022|pages=232-233}}</ref>{{Sfn|光成|2016|p=271}}。また養子の[[毛利秀元]]と一族の[[吉川広家]]を出陣させた。しかし広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の[[関ヶ原の戦い]]では動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。
 
関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も[[豊臣秀頼]]を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や[[立花宗茂]]らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、[[井伊直政]]、[[本多忠勝]]らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。途端に家康の態度は一変して本領安堵の条件を反故にし{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}、輝元の西軍の総大将としての積極的な活動が明らかになったとして{{Sfn|光成|2016|p=275}}<ref name="笠谷2022"/>、毛利家の所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16}}。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=16-17}}。
 
家康の欺瞞によって、最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国([[長州藩]])2か国29万8千石に領地を削られた{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=17}}<ref>『史料総覧』11編913冊277頁。慶長5年10月10日条。「毛利家文書」</ref>。輝元はこれと同時に家督を長男の秀就に譲り、仏門に入って法号を宗瑞と名乗ったが、このことは家康への怒りと先祖に詫びる気持ちがあったからだと考えられている{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=294}}。後に西南の雄藩として[[幕末]]維新の政局を主導することになる長州藩の実力と気骨の底流には、この苦難の立藩を強いられて以来培われた負けん気と反徳川の精神風土があったといわれる{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=17}}。
 
=== 江戸時代 ===
88 ⟶ 90行目:
1600年(慶長5年)に毛利秀元が[[長府藩]]、吉川広家が[[岩国藩]]、1617年(元和3年)には輝元の次男[[毛利就隆]]が下松藩(後に[[徳山藩]])、1652年(承応2年)には毛利秀元の三男[[毛利元知|元知]]が[[清末藩]]を立藩しており、長州藩の4支藩が成立した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=27-28}}。
 
1719年(享保4年)には[[毛利吉元]]により藩校の[[明倫館]]が開かれ、長州藩の文教政策の中心的役割を果たすようになった{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=20}}。[[江戸時代]][[wikt:中期|中期]]、[[毛利重就]]が藩主になると、[[宝暦の改革]]とばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行われた。
 
江戸時代後期の[[1825年]](文政8年)には長州藩で[[戸籍]]制度が創設された。この制度が明治政府により受け継がれ、京都に始まり、やがて全国民を対象とした戸籍制度が創設されることになる<ref>{{Kotobank|1=戸籍|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。[[文政]]12年([[1829年]])には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行っている。
94 ⟶ 96行目:
[[毛利敬親]](慶親)が藩主となった後の天保8年([[1840年]])以降、[[村田清風]]を登用した[[天保の改革]]を行われ、倹約による財政立て直しが図られるとともに下関港に「下関物産総会所」という大阪と北海道、日本海沿岸各地を行き来する他藩の船の積み荷を保管したり、販売を代行したり、資金を融通する公営の公益企業局を設置することで交易を盛んにして長州藩は大きな財力を付けた{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=71}}。すでにこの時期[[産業革命]]を達成した西洋列強が日本近海にも勢力を伸ばし始めていたが、本州の西端にあって三方を海に囲まれている長州藩はこうした国際情勢に敏感であり、早くから洋学を積極的に取り入れて西洋医学を教える医学所などを次々と設立した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=213}}。[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航後には[[周布政之助]]が登用されて財政再建とともに西洋列強の外圧に対抗するため西洋の近代的軍制を模範とした軍制改革が実施された(安政の改革、安政の軍制改革){{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=215-216・336}}。さらに1865年(慶応元年)には[[高杉晋作]]ら討幕派の政権が成立したことで幕府の再征に備えて[[大村益次郎]]を登用しての更なる軍制改革が進められた。特に士官教育システムの構築に力を入れ、短期間で優秀な士官を続々と輩出し、この後の対幕府戦でその力を大いに発揮した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=219}}。
 
こうした一連の藩政改革が功を奏し、長州藩毛利家は[[幕末]]最大の雄藩の一つとなり、[[吉田松陰]]や[[高杉晋作]]、[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[伊藤博文]]などの人材を[[wikt:活躍|輩出]]した。幕府から[[長州征討]]などによって圧迫を受けたものの、これを退けることに成功し、幕府は醜態をさらし続ける中で滅亡して[[明治維新]]が成就した{{sfn|石川松太郎|稲垣史生|加藤秀俊|吉田豊|1996|p=88}}。
 
=== 明治以降 ===
[[File:Garden of Mōri clan residence, Hofu city, Yamaguchi pref Japan(11151408776).jpg|thumb|[[山口県]][[防府市]]多々良の毛利博物館。[[1916年]]([[大正]]5年(1916年)に毛利公爵邸として建設された]]
維新後、[[毛利元徳]]が山口藩知事に就任し、[[廃藩置県]]まで務めた<ref name="nipo"/>。毛利家の維新への多大な功績により、[[明治2年]]([[1869年]])には[[毛利敬親]]と[[毛利元徳]]がそれぞれ最高受領高の10万石の[[賞典禄]]を下賜された。他に10万石を下賜されたのは薩摩藩主の[[島津忠義]]とその父[[島津久光]]だけであり、この4人のみに許された最大恩賞だった{{sfn|浅見雅男|1994|p=102}}。廃藩置県後に旧来の俸禄に代わり政府から支給された[[家禄]]は2万3276石であり、これに敬親と元徳の賞典禄のうち2万5000石分が加えられ、明治9年([[1876年]])に家禄と賞典禄に代えて発行された[[金禄公債]]の額は110万7755円に及んだ。この額は[[島津氏|島津家]](132万2845円)、[[前田氏|前田家]](119万4077円)に次ぐ第3位の高額だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=60/92}}。
 
明治10年([[1877年]])に華族たちによって[[第十五国立銀行]]が創設された際も毛利元徳は6425株を保有して[[島津忠義]](7673株)、[[前田利嗣]](6926株)に次ぐ大株主になっている{{sfn|小田部雄次|2006|p=95}}。
104 ⟶ 106行目:
明治17年([[1884年]])制定の[[華族令]]により華族が五爵制になった。叙爵内規上毛利宗家の家格のみでの爵位は旧大藩知事(現米15万石以上)として[[侯爵]]だったが{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}}、維新への多大な功績が加味されて宗家は最上位の[[公爵]]に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=57-58}}。長州藩の支藩三藩(旧[[徳山藩]]、旧[[長府藩]]、旧[[清末藩]])の藩主だった毛利家3家は旧小藩知事(現米5万石未満)として[[子爵]]に叙せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=338}}。旧岩国藩の吉川家ははじめ陪臣系諸侯と見做されて[[男爵]]だったが、維新の功により[[子爵]]に陞爵している{{sfn|小田部雄次|2006|p=340}}。毛利宗家の分家の[[毛利五郎]]家{{sfn|小田部雄次|2006|p=345}}および長州藩の万石以上の一門家臣だった[[右田毛利家]]と[[吉敷毛利家]]は[[男爵]]に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=351/353}}。ただし一門家臣でも万石未満だった[[大野毛利家]]、[[厚狭毛利家]]、[[阿川毛利家]]の3家には叙爵はなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=731-732}}。
 
また江戸時代初期に無嗣で改易されていた[[小早川氏|小早川家]]が[[毛利元徳]]の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=340}}。毛利家の旧臣である[[大村益次郎]]の孫[[大村寛人]][[伯爵]]の養子に元徳の六男[[大村徳敏|徳敏]]が入ったため、これ以降大村益次郎家は実質的に毛利分家になっている{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=356}}。[[西園寺公望]]公爵の養子に元徳八男[[西園寺八郎|八郎]]が入っており、以降[[西園寺家]]も実質的に毛利分家となった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=3}}。他に[[秋元興朝]][[子爵]]の養子に徳山毛利家の[[毛利元功]]子爵の三男[[秋元春朝|春朝]]、[[大岡忠量]]子爵の養子に元功の末息子の[[大岡忠礼|忠礼]]が養子に入っているので旧[[館林藩]]主[[秋元氏|秋元家]]と旧[[岩槻藩]]主[[大岡氏|大岡家]]は実質的に徳山毛利家の分家として続いている{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=254/409}}。
 
明治31年([[1898年]])の日本国内の高額所得者ランキングによれば毛利公爵家の年間所得は18万5069円に及び、7位にランクインしている(華族でこれより上位なのは前田侯爵家の3位26万6442円と、島津公爵家の5位21万7504円の2家のみ){{sfn|小田部雄次|2006|p=64}}。
130 ⟶ 132行目:
| [[毛利季光|{{ruby|毛利 季光|もうり すえみつ}}]]<br/>{{small|([[1202年]]-[[1247年]])}}
| [[大江広元]]四男
| [[従五位|従五位下]]
| 毛利氏の祖<br/>[[鎌倉幕府]][[御家人]]<br/>[[相模国|相模]]毛利荘領主<br/>[[宝治合戦]]で敗死
| [[三浦義村]]娘
139 ⟶ 141行目:
| [[毛利経光|毛利 {{ruby|経光|つねみつ}}]]<br/>{{small|(生没年不詳)}}
| 先代の四男
| [[従五位下]]
| [[鎌倉幕府]][[御家人]]<br/>[[越後国|越後]]佐橋荘領主<br/>[[安芸国|安芸]]吉田荘領主
|
| [[毛利基親]](長男・[[越後毛利氏]]祖)<br/>[[毛利時親]](四男・[[安芸毛利氏]]祖)
|-
| 3
148 ⟶ 150行目:
| [[毛利時親|毛利 {{ruby|時親|ときちか}}]]<br/>{{small|(生年不詳-1341年)}}
| 先代の四男
| [[従五位下]]
| 安芸毛利氏の祖<br/>[[鎌倉幕府]][[御家人]]<br/>安芸吉田荘領主
| [[長崎氏|長崎泰綱]]娘
156 ⟶ 158行目:
| [[ファイル:Ichimonjimitsuboshi.png|80px]]
| [[毛利元春|毛利 {{ruby|元春|もとはる}}]]<br/>{{small|(1323年-没年不詳)}}
| 先代の[[続柄#曽孫|曽孫]]<br/>{{small|([[毛利親衡]]の子)}}
| [[従五位下]]
| 安芸吉田荘領主
|
238 ⟶ 240行目:
| [[毛利隆元|毛利 {{ruby|隆元|たかもと}}]]<br/>{{small|(1523年-1563年)}}
| 先代の長男
| [[従四位|従四位下]]<br/>贈[[正三位]]
| 戦国大名<br/>[[室町幕府]][[守護大名]]
| [[尾崎局]]([[内藤興盛]]娘)
247 ⟶ 249行目:
| [[毛利輝元|毛利 {{ruby|輝元|てるもと}}]]<br/>{{small|(1553年-1625年)}}
| 先代の長男
| [[従三位]]<br/>贈[[従二位]]
| 戦国大名<br/>安芸[[広島城]]主<br/>[[豊臣政権]][[五大老]]
| [[清光院 (毛利輝元正室)|清光院]](正室。[[宍戸隆家]]娘)<br/>[[清泰院 (毛利輝元側室)|清泰院]](側室。[[児玉元良]]娘)
256 ⟶ 258行目:
| [[毛利秀就|毛利 {{ruby|秀就|ひでなり}}]]<br/>{{small|(1595年-1651年)}}
| 先代の長男
| [[従四位下]]
| 初代[[長州藩]]主
| [[喜佐姫]]([[結城秀康]]娘)
265 ⟶ 267行目:
| [[毛利綱広|毛利 {{ruby|綱広|つなひろ}}]]<br/>{{small|(1639年-1689年)}}
| 先代の四男
| [[従四位下]]<br/>贈[[従三位]]
| 2代長州藩主
| [[松平忠昌]]娘(正室)<br/>[[梨木永祐]]娘(継室)
274 ⟶ 276行目:
| [[毛利吉就|毛利 {{ruby|吉就|よしなり}}]]<br/>{{small|(1668年-1694年)}}
| 先代の長男
| [[従四位下]]
| 3代[[長州藩]]主
| [[酒井忠隆]]娘
283 ⟶ 285行目:
| [[毛利吉広|毛利 {{ruby|吉広|よしひろ}}]]<br/>{{small|(1673年-1707年)}}
| 先代の弟<br/>{{small|(16代綱広の次男)}}
| [[ 従四位下]]
| 初名「就勝」<br/>4代[[長州藩]]主
| [[鷹司輔信]]娘
292 ⟶ 294行目:
| [[毛利吉元|毛利 {{ruby|吉元|よしもと}}]]<br/>{{small|(1677年-1731年)}}
| 先代の養子<br/>{{small|([[毛利綱元]]の子)}}
| [[従四位下]]
| 初名「元倚」<br/>5代[[長州藩]]主
| [[池田綱政]]娘
301 ⟶ 303行目:
| [[毛利宗広|毛利 {{ruby|宗広|むねひろ}}]]<br/>{{small|(1717年-1751年)}}
| 先代の五男
| [[従四位下]]
| 初名「維広」<br/>6代[[長州藩]]主
| [[松平宗昌]]娘
310 ⟶ 312行目:
| [[毛利重就|毛利 {{ruby|重就|しげなり}}]]<br/>{{small|(1725年-1789年)}}
| 先代の養子<br/>{{small|([[毛利匡広]]の子)}}
| [[従四位下]]
| 初名「元房」「匡敬」<br/>8代[[長府藩]]主<br/>7代[[長州藩]]主
| [[立花貞俶]]娘(正室)<br/>[[飯田存直]]娘(側室)<br/>武藤氏娘(側室)<br/>田中氏娘(側室)<br/>[[河野通貞]]娘(側室)
328 ⟶ 330行目:
| [[毛利斉房|毛利 {{ruby|斉房|なりふさ}}]]<br/>{{small|(1782年-1809年)}}
| 先代の長男
| [[従四位下]]
| 初名「維房」<br/>9代[[長州藩]]主
| [[有栖川宮織仁親王]]王女(正室)<br/>山田氏娘(側室)
346 ⟶ 348行目:
| [[毛利斉元|毛利 {{ruby|斉元|なりもと}}]]<br/>{{small|(1794年-1836年)}}
| 先代の養子<br/>{{small|([[毛利親著]]の長男)}}
| [[従四位|従四位上]]
| 初名「教元」<br/>11代[[長州藩]]主
| [[毛利斉熙]]娘(正室)<br/>原田氏娘(側室)<br/>田代氏娘(側室)<br/>山崎氏娘(側室)<br/>[[山東京山]]娘(側室)
355 ⟶ 357行目:
| [[毛利斉広|毛利 {{ruby|斉広|なりひろ}}]]<br/>{{small|(1814年-1837年)}}
| 先代の養子<br/>{{small|(24代斉熙の次男)}}
| [[従四位下]]
| 初名「崇広」<br/>12代[[長州藩]]主
| [[徳川家斉]]娘(正室)<br/>本多氏娘(側室)
364 ⟶ 366行目:
| [[毛利敬親|毛利 {{ruby|敬親|たかちか}}]]<br/>{{small|(1819年-1871年)}}
| 先代の養子<br/>{{small|(25代斉元の長男)}}
| [[従二位]]<br/>贈[[正一位]]
| 初名「教明」「慶親」<br/>13代[[長州藩]]主
| [[毛利都美子]](毛利斉広娘)
449 ⟶ 451行目:
| [[毛利元次|毛利 {{ruby|元次|もとつぐ}}]]<br/>{{small|([[1668年]]-[[1719年]])}}
| 先代の兄<br/>{{small|(初代就隆四男)}}
| [[従五位下]]
| 3代[[徳山藩]]主
| [[森長継]]娘(正室)<br/>[[松平頼隆]]娘(継室)
2,098 ⟶ 2,100行目:
 
== 外部リンク ==
* [http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mouri.html 毛利氏系譜] {{ja icon}}
* [https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88#joe 家系リスト「日本 大江氏」 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~] {{ja icon}}
* {{CRD|2000027074|毛利氏について調べる(概論編)|[[山口県立山口図書館]]}} {{ja icon}}
 
 
{{安芸毛利氏当主}}
 
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1=毛利家
2,109 ⟶ 2,113行目:
|1-3= 日本の男爵家<!--分家の毛利五郎家-->
}}
 
{{DEFAULTSORT:もうり}}
[[Category:大江姓毛利氏|*]]