「黒羽・ウドヴィン事件」の版間の差分
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Lyijykyyneleet (会話 | 投稿記録) 文章を推敲; 警察が1966年から黒羽の動向をずっと把握していたようにも読めるが、出典ではそのように書かれていないため |
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=== 背乗り・結婚 ===
黒羽一郎の失踪は事件性の無いものとして処理されたが、翌[[1966年]]冬、東京・赤坂の宝石会社に勤め、得意先を各国の大使館とし、[[英語]]・[[ロシア語]]・[[スペイン語]]を話せる[[多言語|マルチリンガル]]の[[真珠]]のセールスマンという肩書の「黒羽一郎」なる人物が現れていたことがスパイ事件発覚後の調査で判明した。「黒羽一郎」は1969年に[[新宿区]]高田馬場に戸籍を[[分籍]]、新宿区戸塚町に移住した<ref name=":0" /><ref name=":1" />。黒羽はそこで海外に長期滞在していた危機管理会社の社長の留守宅の管理人となり、社長宅の敷地内に無断でプレハブ小屋を建
=== 事件発覚 ===
[[1992年]]6月29日に海外で諜報活動をしていた「黒羽」が在[[オーストリア]]日本大使館で旅券更新の手続きを行った。この時提出した顔写真が、線が細く弱々しい本物の黒羽とは全くの別人の、体格の良さそうな男だったことが後の調査で判明した。[[1995年]]に[[CIA]]から[[警察庁]]に「『黒羽一郎』を名乗るロシアのスパイが、日本国内でアメリカの軍事情報、日本の産業情報を収集している
=== 家宅捜索とその後の調査 ===
1997年7月、[[旅券法]]違反で[[逮捕状]]が発行され、警察は同7月4日に練馬のマンションの[[家宅捜索]]に踏み切った。捜査員は「黒羽」の日本人妻の激しい抵抗にあい、いったんは押し出されそうになったが、制止を振りきって室内に入り箪笥や机の引き出しを捜索したところ、それらの中から[[乱数表]]、[[短波放送|短波ラジオ]]、換字表など、いわゆる「スパイ七つ道具」
工作員「黒羽」は短波ラジオを用い、[[モールス信号]]で流れる5けたの数字を受信し、乱数表で文章に置き換えて指示を受けていたことが判明した<ref name="sankei" />。警察の調べによれば、工作員は入手した情報を[[マイクロフィルム]]化して[[清涼飲料水]]の空き缶に入れて神社・公園などに置き、ロシア側の別の人間が回収する「[[デッド・ドロップ|デッド・ドロップ・コンタクト]]」と称される手口で受け渡しをしていた<ref name="sankei" />。
=== ウドヴィン逃亡、迷宮入りに ===
家宅捜索から約2週間後である1997年7月17日に、警視庁公安部外事第一課がウドヴィンに事情聴取のための出頭を命じたが、ウドヴィンは外交特権を利用し、出頭要請を無視して直ちに帰国した<ref name=":0" />。2008年8月に警視庁公安部はこの朝鮮系ロシア人の男を国籍、氏名、年齢とも不詳のまま旅券法違反などの容疑で書類送検している<ref name=":0" />。「[[週刊新潮]]」の取材に対して、元警視庁公安部の[[勝丸円覚]]は、黒羽に背乗りしたスパイの正体や、本物の黒羽の行方などが判明しなかったため、「本当に後味の悪い事件」であったと語っている<ref name=":0" />。
== ロシアによる他の対日工作 ==
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