「成蹊中学校・高等学校」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Hello3617hello (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
||
37行目:
かつて1960年代初期までは[[開成中学校・高等学校|開成高校]]、[[麻布中学校・高等学校|麻布高校]]、[[武蔵高等学校中学校|武蔵高校]]と共に都内私立高校の東大合格者の4位までに必ず名を連ねる程の進学校で、多くの生徒が[[東京大学]](東京帝国大学)へ進学した。戦前[[1941年]]には45名(全国9位)、[[1949年]]は64名(全国5位)、[[1950年]]は49名(全国7位)合格で、[[私立学校]]としては全国トップだった<ref>東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する(光文社新書)より</ref>。
伝統的に[[富裕層]]の子弟が多く通い<ref>{{Cite web
===校名の由来===
成蹊の名称は『[[史記]]』の作者[[司馬遷]]が、「[[李将軍列伝]]」において李廣の人物を讃えるために引用したことわざ'''「桃李不言下自成蹊」'''に由来する<ref>{{Cite web
=== 設立の背景 ===
成蹊高等学校は、明治末期から大正期の教育者である[[中村春二]]が、[[三菱財閥]]総帥の[[岩崎小弥太]]、今村銀行([[第一銀行]]と合併)頭取の[[今村繁三]]の協力を得て創設した私塾「'''成蹊園'''」を源流に、[[1912年]]([[明治]]45年)4月に設立された「'''成蹊実務学校'''」を母体として設立された<ref>{{Cite web
中村が設立を目前にして[[1924年]]に死去したため、成蹊高校の設置者(経営団体)となったのは、中村が[[1919年]]([[大正]]7年)に設立した財団法人[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]](現在の[[学校法人成蹊学園]])である。成蹊高校開校にあたり、[[三菱合資会社]](後に三菱本社)社長であり、成蹊学園初代理事長だった岩崎小弥太が多大な支援を行い、実務学校の所在地であった[[池袋]]([[豊島区]])からの移転先として現在地の[[吉祥寺北町|吉祥寺]]を選定するとともに、当地に所有していた1万余坪の農園と、新たに購入した隣接する8万余坪(270,000平方メートル)の広大な土地を併せ、個人的に成蹊学園に寄附した。現在、池袋の跡地は[[豊島区立元池袋史跡公園]]となり、記念碑が建てられている。
140行目:
上表のように成蹊学園理事長には代々[[三菱金曜会]]のトップが就任している。
そのほか歴代の'''成蹊中学・高等学校長'''に[[谷正紀]] ([[三菱自動車工業]]副社長★<ref>{{Cite web
成蹊学園総長には[[高柳賢三]](東京大学名誉教授、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、初代'''成蹊大学学長''')がいる。
2022年現在、成蹊学園長は[[江川雅子]](女性初、東京大学理事)<ref>{{Cite web
=== 成蹊学園 評議員・理事一覧 ===
評議員にも[[三菱グループ]]関係者が数多く登用されている(以下に[[2023年]]現在までの評議員経験者を一部抜粋する。★は成蹊学園出身者を示す)。
'''三菱グループ関係者'''<ref name=":1">{{Cite web
{{colbegin|2}}
* [[小山田隆 (実業家)|小山田隆]]([[三菱UFJ銀行]]頭取・特別顧問)
171行目:
* [[安倍寛信]]([[三菱商事]]執行役員★)
{{colend}}
'''上記以外の評議員・理事経験者'''<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web
{{colbegin|2}}
* [[石坂泰三]]([[東芝]]社長等、学園評議員会議長)
204行目:
== 沿革 ==
{{See also|成蹊高等学校 (旧制)}}
明治末期~大正期の教育者である[[中村春二]]が、[[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属中学校(現:[[筑波大学附属中学校・高等学校]])時代からの友人であった、[[岩崎小弥太]](後の[[三菱財閥]]総帥)と[[今村繁三]](後の[[第一銀行|今村銀行]][[頭取]])の協力を得て東京・[[本郷 (文京区)|本郷]]の自宅に創設した[[私塾]]「成蹊園」が母体となっている<ref>{{Cite web
===旧制高校時代===
219行目:
[[ファイル:Kanehiro Takaki.JPG|thumb|180px|[[東京慈恵会医科大学]]創設者・[[軍医総監]]、[[高木兼寛]]男爵。成蹊教育に賛同し孫や曾孫らを通わせた。]]
中学校設立には中村春二の東京高等師範学校附属中学校同窓生らも賛同していて、特に[[外務次官]]の[[永井松三]]・医師の高木兼二([[東京慈恵会医科大学]]創設者で[[海軍兵学校 (日本)|海軍]][[軍医総監]]を務めた[[男爵]]の[[高木兼寛]]の次男)の2名が熱心に後押しし成蹊中学校理事にも就任した。両者もまた中村の成蹊設立の趣旨に賛同し、自身の子息らを[[1915年]]創設の[[成蹊小学校]]に入学させている<ref>{{Cite web
[[学則]]により入学は選抜試験合格者に限る事が定められた。また学則第8章には「生徒心得」として守るべき校訓5カ条を掲げている。これは中村自身が附属中学校入学に際して[[陸軍少将]]の[[山川浩]]校長から授かった訓示を踏襲したもので、同校で学んだ精神を成蹊中学校にも継承した。[[学費]]は[[入学金]]1円、[[授業料]]は月額5円であり、当時の私立中学の学費相場(1円から3円)を上回っていた。[[寄宿舎]]に子弟を入舎させる場合はさらに高額となった。自他共に認める高額の月謝徴収を決めた成蹊中学校でも、[[実業学校|実務学校]]創立理念を受け継ぎ学則にはない特待生制度を用意した。
指導面で特に留意したのは英語と数学で、英語講師には[[英語学]]と[[英語教育]]の専門家、[[青木常雄]]([[東京教育大学]]名誉教授)を採用している。青木は当時[[東京高等師範学校]]でオーラル中心の新教授法が早期から導入されており、それを参考に成蹊中学校でも口頭練習を多分に取り入れた授業を展開した。女子英学塾(のちの[[津田塾大学]])創立者[[津田梅子]]や、[[学習院]]の[[熊本謙二郎]]といった当時の英語教育の第一人者も授業を参観している。[[ベアトリス・レイン・スズキ|鈴木ビアトリス]]([[文化勲章]]受賞者の[[鈴木大拙]]夫人)や[[香港総督]]秘書であった英国伯爵[[リチャード・ポンソンビー=フェイン|リチャード・ポンソンビー・フェイン]]ら外国人教師も招かれ本場の英語に触れて[[欧州文化首都|欧米文化]]を吸収した。図画教師には成蹊園に在籍する[[曽宮一念]]([[洋画家]])が任命された<ref>{{Cite web
[[File:Uehara Yusaku.jpg|thumb|180px|[[陸軍大将]]を務めた[[上原勇作]]]] [[ファイル:Naoharu Osako.jpg|thumb|180px|[[陸軍大将]]や[[学習院]]院長を歴任した[[大迫尚敏]]]]
233行目:
学園理事には、三菱の[[三好重道]](初代[[検事総長]][[三好退蔵]]の子、[[三菱製鐵]]社長・[[三菱造船]]取締役)と[[山室宗文]]([[陸軍中将]][[山室宗武]]の兄、[[三菱銀行]]常務・[[三菱信託銀行|三菱信託]]・[[三菱地所]]会長)が名を連ねていたが、岩崎の「''近頃は安心して金庫の鍵を預けられる人材が少なくなった''」という発言に対し、三好と山室は「''成蹊学園において真に信頼しうる人材を養成してみてはどうか''」と提案した。この提案によって成蹊実業専門学校が設立されるに至った、と[[今村繁三]]が証言する。すなわち成蹊実業専門学校設立は実業界、特に三菱における中堅的人材の育成が求められて企画されたものであった。
三菱が社員養成を目的とする、[[1878年]]([[明治]]11年)開設の[[三菱商業学校]]([[慶應義塾]]の分校となる)のように、三菱の銘売った学校を創らずに、中村の成蹊に教育を託した根底には、岩崎と中村の長年の信頼に基づく関係があった。岩崎は[[教育者]]としての中村春二に絶大な信頼を有し、惜しみない支援をしたいという思いがあった。中村もまた岩崎の思いを受け、[[実業学校|実務学校]]において着実に教育成果をあげて社会から高い評価を得ると共に、社会状況を受けて岩崎の求める三菱や実業界の人材教育の実践に向かったといえよう。実業[[専門学校]]設立を提案した三好重道と山室宗文もまた中村の成蹊教育に共鳴し、[[成蹊小学校]]に師弟を通わせていた[[保護者]]であった<ref>{{Cite web
教務主任には[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]・[[東京帝国大学]]時代の同級生であった中島万次郎([[哲学者]]、[[天台宗大学]]講師)の他、生徒監には渡辺八郎([[秩父宮]]御用掛、[[学習院]]学生監)が着任した<ref>{{Cite journal|author=成蹊学園|year=1963|title=成蹊会誌|journal=成蹊会誌|volume=第21号|page=4頁}}</ref>。民法・経済学は[[末弘厳太郎]]([[東京大学]]名誉教授)、[[森戸辰男]](第63・64代[[文部大臣]]、[[広島大学]]学長)<ref>{{Cite journal|author=亀嶋庸一|year=2019|title=丸山眞男と創立期の成蹊大学|journal=成蹊法学|volume=第92号}}</ref>、[[石坂音四郎]]([[京都帝国大学]]教授)を通じて[[鳩山秀夫]]([[日本の国会議員|衆議院議員]]、第6代[[衆議院議長]]の[[鳩山和夫]]次男)が担当した。鳩山は成蹊教育に期待して一人息子を[[成蹊小学校]]に入学させた保護者でもあった。商業科目講師は三菱の選任によった。三菱は[[1912年]]から毎年社内で定期的に[[簿記]]講習会を開催した。[[1916年]]からは[[早稲田大学]]商科教授の[[吉田良三]]([[会計学]]の権威、のちに[[一橋大学]]名誉教授)が講師を担当し、翌年に開校した成蹊実業専門学校の講師にも吉田を起用させている<ref>{{Cite journal|和書|author=坂本雅士, 上松公雄, 岩井恒太郎, 渡邉宏美, 神尾篤史, 平松智史, 東条美和|year=2016 |url=https://doi.org/10.14992/00012407 |title=わが国の税務会計教育をめぐる現状と課題(上) |journal=立教經濟學研究 |ISSN=00355356 |volume=70 |issue=1 |pages=1-28 |doi=10.14992/00012407 |naid=120005841934}}</ref>。
242行目:
[[File:Iwasaki Seishichi and his friends.jpg|thumb|200px|米国留学時の八右衛門(右から2人目)。幼名は金三郎だったが、滞米中は川崎金二郎と名乗っていた。左端は[[岩崎清七]]、その隣に大三輪奈良太郎(名古屋明治銀行頭取<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-3189 大三輪奈良太郎]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913714/12 大三輪奈良太郎君]『名古屋百紳士』馬場籍生 著 (名古屋百紳士発行所, 1917)</ref>)、右端は[[木村利右衛門]]。この頃に親しくした郷温の妹とのちに結婚した。]]
第1回卒業生の17名の就職先内訳は、[[三菱合資会社]]6名、[[東京川崎財閥|川崎銀行]]4名、[[久原財閥]]関係2名、そのほかは[[横浜正金銀行]]・[[台湾銀行]]・[[三井銀行]]などであった。[[1919年]]から[[1923年]]までの本科生卒業後の進路としては、[[三菱銀行]]13名で最も多く、[[三菱製鐵]]や[[三菱商事]]、[[三菱製紙]]、[[三菱造船]]などやはり[[三菱グループ]]の就職が多かった<ref>{{Cite web
=== 東京成蹊高等女学校の設置 ===
292行目:
| 次作 =
}}
[[2012年]][[5月12日]]、学園創立100周年記念式典が[[東京国際フォーラム]]と[[東京會舘]]で2万3000人の来場者のもと実施されている<ref>{{Cite web
100周年記念として前年の[[2011年]][[11月19日]]から2日間に渡って、学園本館(横幅70m、高さ20m)に複数の大型[[プロジェクター]]で高解像度の[[CGアニメーション]]を投影する、国内最大規模の[[3Dプロジェクションマッピング]]上映イベントが実施された。[[NHKエンタープライズ]]と[[ピクス (企業)|ピクス]]が共同で行った<ref>{{Cite web
====創立100周年記念映画の制作====
100周年記念映画『たしかなあしぶみ なかむらはるじ』が制作され、記念式典にて上映された<ref>{{Cite web
'''キャスト'''
313行目:
葬儀は妻・[[安倍昭恵|昭恵]]を喪主とし、関係者による通夜が同月11日、告別式は同月12日に東京都港区の[[増上寺]]で執り行われ、その後[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付された。{{See also|故安倍晋三国葬儀}}
[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]においても同月[[7月12日|12日]]から[[7月30日|30日]]まで献花台と記帳台が設置され、多くの在学生や教職員、卒業生、地域住民らがメーセージカードに想いを綴った<ref>{{Cite web
学園は事件当日の[[ウェブサイト|公式サイト]]上で「''本日、本学園の卒業生で、元首相の安倍晋三さんが、とても痛ましい事件によりお亡くなりになりました。成蹊学園は今、大きな悲しみに包まれています。本学園を大切な母校とし愛してくださった[[安倍晋三]]さんに、心より哀悼の意を表します。''」と[[訃報]]に触れた<ref>{{Cite web
=== 年表 ===
342行目:
* [[1959年]] - 成蹊気象観測所設置
* [[1964年]] - 成蹊中学校 [[帰国子女]]教育を目的とする「国際特別学級」設置(1995年「国際学級」と改称)
* [[1964年]] - 戦没者慰霊碑が完成 成蹊学園評議員会議長で[[日本経済団体連合会|経団連]]会長の[[石坂泰三]]の寄付により製作<ref>{{Cite web
* [[1970年]] - 成蹊高等学校 [[オーストラリア]]・カウラ高校と交換留学制度を制定
* [[1971年]] - 成蹊学園欅並木 武蔵野市の[[文化財]]([[天然記念物]])に指定
362行目:
「個性の尊重」「品性の陶冶」「勤労の実践」
2019年11月、建学の理念が[[国際連合教育科学文化機関憲章]](通称[[国際連合教育科学文化機関憲章|ユネスコ憲章]])に通ずるものと評価され、[[パリ]]に所在する[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)本部より[[ユネスコスクール]]として認定された<ref>{{Cite web
== 教育 ==
433行目:
===ケヤキ並木・サクラ並木===
学園入口から中学校・高等学校正門まで約600メートル続く'''ケヤキ並木'''(124本)は「[[日本の音風景100選]]」([[環境省]])、「新東京百景」([[東京都]])に選定されている。全体としても、[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]キャンパスは2011年度[[グッドデザイン賞]]を受賞した。<ref>{{Cite web
[[画像:Seikei University Zelkova trees 1.jpg|thumb|230px|成蹊学園ケヤキ並木の一部]]
成蹊学園が[[池袋]]から[[吉祥寺]]に移転した後、[[1924年]](大正13年)に植樹された[[ケヤキ|欅]]並木で、樹齢は100年を超える<ref name=":0">{{Cite web
環境庁の音風景100選では、[[春]]の「新緑の優しく爽やかな葉擦れ」、[[夏]]の「濃い緑の下のしじま」、[[秋]]の「軽やかに舞う落ち葉」、[[冬]]の「木枯らしの後に一瞬の静寂」が評価された。
444行目:
* [[東京都]]・「[[新東京百景]]」(1982年)
* [[環境庁]]・「残したい[[日本の音風景100選]]」(1996年)
2017年には「けやき循環プロジェクト」を開始し、1日の2トンにもなる落ち葉を資源とし、[[サステナビリティ|サステナビリティー]]([[持続可能性]])教育の場として活用されている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web
*'''桜並木'''
451行目:
===図書関連施設===
成蹊中学・高等学校ではないが、'''[[成蹊大学情報図書館]]'''と'''成蹊小学校新校舎'''(成蹊学園100周年記念事業の一環)の設計は世界的建築家[[坂茂]]と[[三菱地所設計]]が共同であたった<ref>{{Cite web
中央館にある成蹊中学校・高等学校図書館の蔵書数は合計で約15万冊であり、中高の図書室としては日本有数の規模と設備を誇る。[[成蹊大学]]情報図書館の蔵書数は130万冊を超える。利用許可書(生徒部で発行)と[[身分証明書]]、高等学校図書室利用カード(通称『'''族'''(うから)』)の提示があれば中高生にも大学図書館の利用が可能である。また、2008年度の[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref>{{Cite web |title=成蹊大学 情報図書館 [教育施設] |url=http://www.g-mark.org/award/describe/34552 |website=Good Design Award |access-date=2022-08-19}}</ref>。{{main|成蹊大学情報図書館}}
[[成蹊高等学校 (旧制)|旧制成蹊高等学校]]は1938年に「緑陰堂文庫」を開設し、情報図書館2階にはその横額、学園[[史料|史料館]]には原版が保管されている。文庫の命名は[[岩崎小弥太]]理事長によるもので、自作の句「緑陰清風筧の音のありところ」が由来とされ、欅並木のように青葉茂った木立の日陰で快適に[[読書]]できる場所を意味している。現代の[[情報化社会|高度情報化社会]]の中でも岩崎小弥太理事長の考え方が成蹊の伝統として受け継がれている<ref>{{Cite web
===成蹊気象観測所<ref>{{Cite web
[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]は成蹊気象観測所を所有している。[[1924年]]、尋常科[[理科]]の教諭として赴任した加藤藤吉氏によって翌[[1925年]]に設立された。気象観測法に基づいた精密な[[気象観測]]を生徒らと進めたのが最初で、公式記録は[[1926年]]から出されている。戦時中に[[東京管区気象台]]から[[吉祥寺]]観測所の指定を受け[[1959年]]に正式な[[所有権]]が成蹊学園に移り、私立の気象観測所として設立された。この気象観測の精密さは、[[気象庁]]による観測と同程度であり、実に100年前([[2022年]]現在)から高精度な観測が実現されていた。観測記録をつけた[[野帳]]は1926年から存在し、観測開始から1日の欠測も無く記録が続けられている。民間の気象観測所では最も長い観測記録を保有する<ref>{{Cite web
*'''中学・高等学校中央館:'''中学校生徒ホール、高校食堂(300席)、コンピュータ教室A(50席)、コンピューター教室B(40席)、視聴覚教室B、中学校図書室・高校図書室(蔵書数合計15万冊)、分割教室(30名×4部屋)、会議室、事務室がある。中高ホームルームと連結している。
467行目:
*'''中学校ホームルーム棟'''(2007年7月竣工):鉄筋4階建て、延床面積5,492平方メートル
*'''高校ホームルーム棟'''(2008年12月竣工)
**設計は[[三菱地所]]、建設は[[大林組]]<ref>{{Cite web
*'''中高テニスコート'''(5面・全面人工芝)
*'''中高グラウンド'''
494行目:
* ドラマ「[[年下の男]]」2003年放送([[TBS系列]])
* ドラマ「[[ドラゴン桜 (テレビドラマ)|ドラゴン桜]]」2005年放送(TBS系列)
* ドラマ「[[美丘|美丘-君がいた日々-]]」2010年放送([[日本テレビ系列]])<ref>{{Cite web
* ドラマ「[[花のち晴れ〜花男 Next Season〜]]」2018年放送(TBS系列)- 作中では「英徳学園」
* ドラマ「[[星新一の不思議な不思議な短編ドラマ]]」『地球から来た男』[[2022年]]放送([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])<ref>{{Cite web
* ドラマ「[[Silent (テレビドラマ)|silent]]」第10話 2022年放送(フジテレビ)<ref>{{Cite web
* 漫画「[[テニスの王子様]]」 - 作中の主役校「[[青春学園]]」のモデル校とされる
511行目:
=== 心力歌 ===
作成は成蹊学園創立者[[中村春二]]の盟友であった[[小林一郎]]。小林は少年期に[[奥津雁江]]の[[私塾]]において[[和漢書]]を学習し、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業後は[[西洋哲学]]の著訳書を相次いで出版、さらには[[日蓮]]、[[法華経]]などの[[仏教]]を中心に[[東洋哲学]]に精通している[[学者|研究者]]でもあった。教育の基本的な在り方を日本古来の教育理念である「修養」としたことから、生徒に心の奥底にある「尊い心」を気付かせるための手段として制作を依頼され1913年に完成。構成は全8章で[[漢文|漢文調]]であり、[[人間]]の内面的主体性の重要性を多角的に説く<ref>{{Cite web
== 進路 ==
535行目:
都心ながら校内に馬場を持つ馬術部や、[[スキー]]部も全国大会に出場している。
[[サッカー]]部は旧制中学校時代の1918年に「日本サッカー界の父」と称された[[内野台嶺]]が学生と協力して創部された。2018年の創部100周年記念式典には[[安倍晋三]]元[[内閣総理大臣]]が祝辞を送った<ref>{{Cite web
[[籠球]]部([[バスケットボール]]部)は1927年創部で、[[成蹊高等学校 (旧制)|旧制成蹊高校]]時代の1927年、全国高校バスケットボール大会準優勝。[[1931年]]には、第10回全日本籠球選手権大会(現 [[全日本総合バスケットボール選手権大会]])で、高校生ながら大学を含む強豪チームを破り、全日本制覇という偉業を達成したことがある。
683行目:
* [[立花陽三]] - [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]社長
* [[谷正紀]] - [[三菱自動車工業]]元副社長・元成蹊中学・高等学校校長
* [[天坊昭彦]] - [[出光興産]]社長<ref>{{Cite web
* [[長瀬文男]] - [[IMAGICA]]会長
* [[西山茂行]] - [[西山牧場]]代表
781行目:
* [[河北博文]] - 医師、[[河北総合病院]]理事長、[[日本医療機能評価機構]]専務理事、東京都病院協会会長
*竹下隆一郎 - [[ハフポスト]]日本版編集長
出典<ref>{{Cite web
== 旧制成蹊高等学校出身者(五十音順) ==
|