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[[1988年]](昭和63年)の予算委員会で、委員長[[浜田幸一]]の過去の発言を引用して、「[[過激派]]泳がせ政策」の存在について正森が追及していたところ、浜田がその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である[[宮本顕治]]君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」などと主張した。浜田からの言質は得られたものの逆に共産党への挑発を受けた正森は、過激派の話題を切り上げて他の質問に移った。
 
しかしその後、円ドル為替問題の質疑中の正森を浜田が唐突に遮り、「昭和8年12月24日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長[[小畑達夫]]を股間に……」「[[針金]]で絞め、[[私刑|リンチ]]で殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね。」「私が言っているのは、ミヤザワケンジ<ref>宮本顕治を宮沢賢治と言い間違えた。</ref>君が人を殺したと言っただけじゃないですか。」等と発言し出し<ref>{{Cite web |和書|date=1988-02-06|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111205261X00719880206 |title=第112回国会 予算委員会 第7号議事録 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2017-09-30}}</ref>、委員会は大荒れとなった。この結果1ヶ月間委員会審議が空転し、浜田は辞任した<ref>[[朝日新聞]]の正森の追悼記事によると浜田は正森と出会ったときに、「俺の首をとりやがって」と話しかけたという。</ref>。
{{Main|浜田幸一#「宮本顕治人殺し」発言}}