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== 織田家領地再配分 ==
領地再分配では、次男・[[織田信雄|信雄]]は[[尾張国]]を、三男・信孝は[[美濃国]]を相続し、信長の四男で秀吉の養子である[[羽柴秀勝]]は明智光秀の旧領である[[丹波国]]を相続した。家臣団へは、勝家は[[越前国]]を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である[[長浜城 (近江国)|長浜城]]と北近江3郡12万石の割譲が認められ、長浜城は養子の[[柴田勝豊]]に与えられた。長秀は[[若狭国]]を安堵の上で、[[近江国]]の2郡を、恒興は[[摂津国]]から3郡を、それぞれ加増された{{要出典|date=2021年12月}}。新当主である三法師は近江国坂田郡と[[安土城]]を相続し、秀吉には従来の[[播磨国]]・[[但馬国]]に加え[[河内国]]と[[山城国]]が増領され、丹波国も含めると28万石の加増になり、勝家と逆転した{{要出典|date=2021年12月}}。
また、神流川の戦いの後、[[北条氏政]]・[[上杉景勝]]、そして織田家の従属大名状態となっていた[[徳川家康]]が、織田家の支配が動揺している旧武田領国に侵攻した([[天正壬午の乱]])。このうち、徳川家康から羽柴秀吉ら織田家重臣に対して旧武田領国への進出の了承を求めてきていた。重臣たちは当初は旧武田領国の奪還を方針としていたが、家康の申し入れを受けて家康による旧武田領国の平定を容認することになった<ref> 宮川展夫「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」『駒沢史学』第78号、駒沢史学会、2012年、 23頁。</ref>{{sfn|柴裕之|2018|pp=49-50}}。ただし、これによって滝川一益をはじめとする今回の決定によって所領を失うことになる旧武田領国に与えられていた諸将への対応は決定されず、後日旧武田領国を家康に委ねたことを知った滝川一益から代わりの所領を要求されるが、重臣たちは会議で決定した所領配分のやり直しも出来ずに結論が先送りされ、一益の不満を強めていくことになる{{sfn|柴裕之|2018|pp=56-59}}。また、信雄が支配することになった尾張国と信孝が支配することになった美濃国の国境についても両者の意見の対立があり(信孝は洪水による木曽川の流路変更を理由に国境線自体の変更を求めた)、信孝の意見を支持する秀吉と信雄の意見を支持する勝家が対立した(秀吉は信孝の意見を支持する代わりに三法師の安土移動を取引する算段であったという)。最終的に信雄の意見が会議の合意に基づいたものとして認められることになるが、これは信孝の不満を強めていく一因となった{{sfn|柴裕之|2018|pp=61-64}}。
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