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m 関ヶ原の戦い: {{Wikisource|管窺武鑑/下之下第九巻#9-1-6|管窺武鑑|著者・夏目定房による利長評「丹羽長重事、利長取持にて、権現様御赦免を蒙る。利長誠の武士道なり。」原文}}
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=== 北陸三ヶ国120万石の太守 ===
[[関ヶ原の戦い]]後、弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・[[能登国|能登]]の3ヶ国にまたがる日本最大の藩・加賀藩が成立した。利長は1反を300歩に改め領内の再検地と丹羽・山口遺臣の蜂起に備え刀狩りを実施、122万5千石の検地高を得たが幕府は認めず、119万2760石を前田家の朱印高とした<ref>慶長10年(1605年)4月8日、利長隠居・利光(のちの利常)宛「領知判物」</ref>。
 
豊臣政権下の大老格の家々であった宇喜多家・上杉家・毛利家が改易および減封により家格を落とす中(小早川家も後に断絶)、前田家は徳川氏以外で唯一公卿(武家清華)の家格を維持することが許された。この家格は江戸時代も継続されることとなる。
 
利長は、[[関ヶ原の戦い]]で敗れて[[薩摩国]]へ逃れていた[[宇喜多秀家]]の助命を家康に嘆願し、実現したと言われているが、実際に動いたのは母の芳春院であって、利長が助命に動いたことを示す史料は存在しない。利長は前田家領国を守ることを何よりも最優先にして利政・秀家の切り捨てを図り、その結果として120万石にも及ぶ大封を得たのが実像であったとみられている<ref name="ohinishi"/>。