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'''北畠 顕家'''(きたばたけ あきいえ)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[南朝 (日本)|南朝]][[公卿]]・[[武将]]。『[[神皇正統記]]』を著した[[准三后]][[北畠親房]]の[[長男]]。主著に『[[北畠顕家上奏文]]』。[[南朝 (日本)|南朝]][[従二位]][[権中納言]]兼[[陸奥大介]][[鎮守府将軍|鎮守府大将軍]]、[[贈位|贈]][[従一位]][[右大臣]]。
 
[[後醍醐天皇]]側近「[[後の三房]]」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で[[参議]]{{efn|正確には平安時代に[[藤原頼長]]の子供である[[藤原師長]]が数え14歳で参議に任ぜられている。但し師長は摂関家であり、村上源氏でも庶流であった顕家の任官は異例のものであった。}}に任じられて[[公卿]]に登り、[[建武の新政]]では、義良親王(後の[[後村上天皇]])を奉じて[[陸奥国]]に下向した([[陸奥将軍府]])。のち[[足利尊氏]]との戦い[[建武の乱]]が起こると、西上し、第一次京都合戦で[[新田義貞]]や[[楠木正成]]らと協力してこれを京で破り、[[九州]]に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して[[南北朝時代 (日本)|南北朝の内乱]]が開始するにおよび、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。[[青野原の戦い]]で幕将[[土岐頼遠]]を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。[[伊勢国|伊勢]]経由で迂回して[[大和国|大和]]などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に[[和泉国]][[堺浦]]・石津に追い詰められ、[[石津の戦い]]で奮戦の末に幕府[[執事 (室町幕府)|執事]][[高師直]]の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳(満20歳)。
 
後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な[[北斉]]の皇族武将[[高長恭]]に扮して『[[蘭陵王 (雅楽)|陵王]]』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。
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元弘元年(1331年)3月、後醍醐天皇が[[西園寺公宗]]の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「[[陵王]]」を舞った<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である[[二条道平]]が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという{{efn|『増鏡』では、「其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり」とこのときの様子が記されている。}}。
 
このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった{{efn|「元徳二年(1330年)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した」<ref>河出書房新社『日本歴史大辞典』</ref>}}。これは[[北畠家]]が即位前の邦仁王のころより代々[[大覚寺統]]と深い関係にあったからであると考えられる<ref>本郷和人「天皇の思想: 闘う貴族北畠親房の思惑」2010年 山川出版社</ref>。
 
=== 陸奥への下向と統治 ===
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翌建武3年([[1336年]])1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、[[足利義詮]]・[[桃井直常]]の軍勢を破り、鎌倉を占領した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。翌日、[[佐竹貞義]]が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmにおよぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[中国大返し]]を遥かに越える日本屈指の強行軍である。
 
その後、顕家軍は[[琵琶湖]]を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・[[楠木正成]]と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた<ref>『大日本史料』6編2冊978頁-</ref>。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
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[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])1月、父の北畠親房から[[伊勢国|伊勢]]へ来援する文書が送られた<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。同月8日、顕家は国府を[[霊山 (福島県)|霊山]]([[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]および[[相馬市]])の[[霊山城]]に移した<ref>『大日本史料』6編4冊37頁</ref><ref name="日本の歴史学講座HP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
同じころ、[[後醍醐天皇]]からも前年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き<ref>『大日本史料』6編3冊934頁「白河文書」</ref>、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った<ref>『大日本史料』6編4冊57頁</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。[[脇屋義助]]と連絡を取り合っている」と返答している。
 
8月11日、顕家は[[後村上天皇|義良親王]]を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した<ref>『大日本史料』6編4冊352頁</ref><ref name="日本の歴史学講座HP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。軍記物『太平記』では、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったと描かれた。
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=== 畿内における戦い ===
[[File:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|thumb|230px|足利尊氏像( [[浄土寺]]蔵)]]
2月4日、尊氏の命により、[[高師泰]]・[[高師冬|師冬]]・[[細川頼春]]・[[佐々木氏頼]]・[[佐々木道誉|高氏]]らが顕家軍討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川および櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
2月21日、顕家は辰市および三条口に戦って[[大和]]を占領するが、28日に[[般若坂の戦い]]で激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた<ref name="#2"/><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。
 
一方、[[河内国]]に退いた顕家は、[[伊達行朝]]、[[田村輝定]]らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国[[天王寺]]に軍を集結、3月8日に[[天王寺の戦い]]で勝利した<ref>『大日本史料』6編4冊737頁</ref><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
だが、3月13日に奥州軍は北朝方と再び天王寺、阿倍野および河内片野(片埜・古名、交野とも)で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。3月15日に顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" /><ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
 
3月22日、南朝は九州の[[阿蘇惟時]]に出兵を要請し、顕家を救援するように命じている<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。
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== 死後 ==
顕家の死によって南朝は、同年閏7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の[[室町幕府]]は中央のみならず顕家の根拠地であった[[陸奥国|奥州]]においても有利な戦いを進めていくことになった。
 
顕家の死後、6月21日に[[日野資朝]]の娘である妻は河内国[[観心寺]]で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の[[北畠顕信]]は南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に[[伊勢国|伊勢]][[国司]]の[[北畠顕能]]を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った([[常陸合戦 (南北朝時代)|常陸合戦]])。しかし、興国4年/康永2年([[1343年]])11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。