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* [[1923年]]、[[関東大震災]]に被災したため北海道に帰る。
* [[1924年]]、北海道内で騎手見習いとなり[[1928年]]、[[札幌競馬場]]で騎手デビュー。
* [[1938年]][[3月1日]]、調教師免許を取得。
* [[1987年]]度は、西塚の調教した[[シノクロス]]が[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]や[[フェアリーステークス|テレビ東京賞3歳牝馬ステークス]]を制して(年度重賞勝ち鞍6戦3勝)、第1回[[JRA賞最優秀2歳牝馬|JRA賞最優秀3歳牝馬]](旧[[馬齢]])に選ばれた。
* [[1991年]][[2月28日]]引退し、引退式は同年[[2月24日]]、かつて自厩舎のあった[[中山競馬場]]にて行わで催された。
* 引退後も[[新冠町]]で馬を預かって飼育するなど、馬と関わり続けた。
* [[2006年]][[12月23日]]3時50分、[[老衰]]のため94歳で[[埼玉県]][[東松山市]]の病院で死去した(94歳没)
 
== その他の活動 ==
自身が両親を亡くして苦労をしてきた経験から、身寄りのなくなった知り合いの子供や養護施設の子供を引き取るなど[[フィランソロピー|慈善活動]]にも力を入れていた。なお、西塚は結婚はしたが血の繋がった子供はいなかった。
 
== 強運のエピソード ==
西塚は調教師としても[[コマミノル]]([[優駿牝馬|オークス]])や[[ミスカブラヤ]]([[エリザベス女王杯]])などで大競走制覇の実績を残しているが、日本の事件・事故史に残る様々な災難をあわやのところで逃れてきたことから、「厄除大師」「ミスター強運」などの異名を持つほどであった。称され、テレビ番組『[[ザ!世界仰天ニュース]]』で取り上げられたことがある
 
; [[関東大震災]]
: [[1923年]][[9月1日]]、西塚は横浜の奉公先で関東大震災に遭遇した。いつものように向かいの瀬戸物屋の商品がカチャカチャとぶつかり合う光景(西塚本人は「カタカタショー」と呼んでいた。)ぶ光景を眺めようと道路に飛び出した途端にパン屋の1階部分が完全に倒壊し、すんでのところでたが難を逃れた。なお、横浜は直後に猛火で焼け野原となってお脱出できなければ焼死必至の状況だった。
; [[洞爺丸事故]]
: [[1954年]][[9月26日]]、移動のため函館から[[青函連絡船]]4便に乗船予定だった。切符は所ていたが、知人に誘われて[[湯の川温泉 (北海道)|湯の川温泉]]の宴会に出席する。ところが、宴会深夜まで続いてしまいに至り、席を立ちそびれ、その4便[[洞爺丸]]に乗り遅れた。洞爺丸は出港した後[[洞爺丸台風|台風]]15号の強風のためよって七重浜沖で転覆、死者行方不明者あわせて1139人という大惨事になったが、西塚は遭難を免れた。
; [[ばんだい号墜落事故]]
: [[1971年]][[7月3日]]、西塚と同じ北海道出身の同僚で友人だった[[柏谷富衛]]調教師と共に[[日本エアシステム|東亜国内航空]]63便[[函館空港|函館]]行に搭乗予定であり、車で待ち合わせ場所の[[札幌飛行場|丘珠空港]]へ向かった。しかし、直前に知人と立ち寄った料理屋で女将が料理を失敗([[米|白米]]を炊き忘れる。)するたこいうトラブルに巻き込まれてから出発が遅れてしまい、「これは(飛行機に)間に合いそうにないな」と、宿泊する宿のことを考えていた。それでも10分遅れで丘珠空港に到着した際、偶然にも[[飛行機]]はまだ離陸していなかった。西塚は最初は搭乗しようとしたが(チケットは二人分、柏谷が持っていた。)、航空会社が既にキャンセル待ちの人を乗せてしまっていたのを見て「一度乗せてあげた人を降ろしたらかわいそうだから」と搭乗を辞退した。「札幌で一泊しないか」と柏谷を誘うも、カウンターでずっと待ち続けていた柏谷は「俺はお前ほど暇じゃねぇんだ!」と怒り(この時、自厩舎の主な管理馬に[[天皇賞(春)|天皇賞]]馬[[リキエイカン]]がおり、柏谷の仕事が忙しいのは事実だった。)、一人で乗り込んでしまったところがその「ばんだい号」函館を前にして[[横津岳]]に墜落、柏谷を含む乗員・乗客全員が死亡する大惨事となった。西塚は命拾いしたが、「あの時、柏谷をもっと強く引き止めておけば……。」と終生悔やんでいたという
; [[ホテルニュージャパン火災]]
: [[1982年]][[2月7日]]夜、西塚は東京の常宿だった[[ホテルニュージャパン]]の9階にチェックインし、その後友人4・5人と[[新宿]]で飲み明かす。飲み終わったあとにふと懇意にしていた女性の[[バー (酒場)|バー]]に寄ることを思い付き、明け方までそこで過ごした。明け方永田町のホテル戻ると[[火災|大火災]]が発生しており、結果的に死者33人を出す大惨事となっていた。出火場所は西塚がチェックインた9階だった。バーに寄らずにまっすぐホテル戻っていたとすると、発災は寝静まった頃合に火災が発生していた計算になる。出火場所は西塚がチェックインしていたのと同じ9階だった
なお、関東大震災以外はすべて現地の愛人宅で過ごしていたために難を逃れたというのが真実であるとする、親族や牧場オーナーの証言も死後に伝えられている<ref>[[週刊新潮]]2012年2月9日号・「私はこうして死から逃れた!」-ホテルニュージャパン火災から30年</ref>。もっとも、この様に災難に対しては強運を持つ人物ではあったがいざ本業の競馬となると、では[[東京優駿|ダービー]]馬[[カブラヤオー]]について生産牧場でもある十勝育成牧場の共同経営者であったにもかかわらず、馬体のみすぼらしさから「馬房が一杯で空きがありませんので勘弁してください」という理由をつけて預託引き受けを断ってしまったというエピソードがある<ref>{{Cite web|和書|author=瀬戸慎一郎 |title=【最強ヒストリー】カブラヤオー 第2話 落ちこぼれ |url=http://www.plus-blog.sportsnavi.com/saikyokeiba/article/486 |work=競馬最強の法則WEB |website=Yahoo!スポーツナビ+ |deadlinkdate=2018年2月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406233107/http://www.plus-blog.sportsnavi.com/saikyokeiba/article/486 |archivedate=2016-4-6 |accessdate=2021-3-16}}</ref>。
 
== 実績 ==
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== 主な厩舎所属者 ==
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
* [[古賀一隆]](1965年 - 1968年 騎手)
* '''西塚安夫'''(1972年 - 1986年 調教助手)
* [[星野信幸]](1987年 - 1988年 騎手)
 
== 脚注 ==