「三島由紀夫」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→幼年期と「詩を書く少年」の時代: 提示している出典には、背中に絶斗世代と彫られたということは書かれていなかったと思いますが。、 |
→関連人物: 実際に三島さんと笠置氏の対談が掲載されているページ数と章名の起債に変更します |
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:政治活動家。三島が結成した[[楯の会]]2期生で第7班班長。[[三島事件]]の実行メンバー。「三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました」と裁判陳述で述べた<ref name="date7">「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=123-150}})</ref>。
;[[笠置シヅ子]]
:三島は「[[東京ブギウギ]]」の大ヒットで一世を風靡した歌手笠置シヅ子の大ファンで、上記の通り、役人時代に書いた[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]の演説原稿に〈[[淡谷のり子]]さんや[[笠置シズ子]]さんのたのしい[[アトラクション]]の前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが〉と入れて、上司に𠮟責されたこともあったが<ref name="naga"/><ref name="ookura"/>、作家となってからも、雑誌『日光』の1950年4月特大号の「三島由紀夫・笠置シズ子大いに語る」という記事で笠置と対談した際に、三島は〈今日は笠置さんに片想いを縷々と述べる會ですからね〉と自分が笠置の大ファンであることを告白、その後も[[ハイテンション]]でまくし立てて笠置を圧倒し、〈笠置さんの歌はちょっとした訛りがとてもエロティックですよ。やはりあの訛りに色気があるのですね〉〈何かしら僕は、天皇陛下みたいな憧れの象徴とでも云おうか、そういった存在ですよ。あなたは〉〈明治以来日本に3人女傑がいるんです。[[与謝野晶子]]、[[三浦環]]、[[岡本かの子]]。そして4番目は笠置シズ子〉と激賞している<ref>「
;[[加藤道夫]]
:劇作家。芥川比呂志同様、共に「雲の会」の同人で劇作家仲間として親交があった。三島は加藤を、〈純にして純なる、珠のごとき人柄〉のゆえに自作の不評に傷つきやすく〈大劇作家たらしめなかつた〉のではないか<ref name="h-reki"/>、〈加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない〉と語り<ref>「加藤道夫氏のこと」(毎日マンスリー 1955年9月号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=535-537}}</ref>、腐敗した劇檀人種の中で〈心やさしい詩人は、「理想の劇場の存在する国」へと旅立つた〉と加藤の自殺を追悼した<ref>「楽屋で書かれた演劇論」(芸術新潮 1957年1月号)pp.176-183。{{Harvnb|29巻|2003|pp=417-431}}</ref>。加藤の死から間もない頃、[[矢代静一]]と[[奥野健男]]は、三島から「僕のペンネームは魅死魔幽鬼尾にしたよ」と[[勘亭流]]で書かれたメモの字を見せられたとされる<ref name="yashi14">「第十四章 その鎮魂」({{Harvnb|矢代|1985|pp=211-228}})</ref><ref>「昭和28年12月28日」({{Harvnb|日録|1996|p=163}})</ref>。
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