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=== その他 ===
室町時代末期に書かれた『{{ws|[[:s:塵塚物語|塵塚物語]]}}』では、応仁の乱の最中に訪問した公家が先例を引き合いに出して諫めた所、「これからは例という字を時に置き換えたらどうか」「先例というが、あなたが没落して私と対面している今こそ時を重視すべきではないか」と言ったとするエピソードが書かれ、時勢を重視する宗全を表す逸話として引用されている。この話が史実かどうかは不明だが、宗全が形式より実力を重要視したのは事実で、荘園を横領するなどの行為など後の[[戦国大名]]の実力本位の行動が宗全には多々見える{{Sfn|小川|1994|pp=75-77}}{{Sfn|川岡|2009|pp=5,189}}。
 
かつて応仁の乱の原因は勝元との対立が主流だったが、対立は寛正6年からであり、それまでは協調して幕政の勢力争いに対処していったことと、文明4年の和睦交渉まで数えると対立時期が7年しかなかったこと、宗全と勝元が死去した後の文明6年にそれぞれの後継者が和睦したことから近年は異説もある{{Efn|寛正6年に勝元の命令で大内教弘・政弘父子が[[伊予国|伊予]]守護[[河野教通]]と合流して[[河野通春]]を討つ手筈だったが、教弘父子は逆に通春と手を組んで勝元と対立した。同時期に斯波義廉が畠山義就・宗全と連携しており、大内氏の離反も宗全と図ったとされ、細川派と山名派の対立はこの年から始まったとされる。また、文明4年の和睦交渉の理由について、義廉の地位保全が幕政における山名氏の存続にかかっていたが、その鍵となる[[関東地方|関東]]政策で現地の幕府方が単独で反幕府方の[[古河公方]][[足利成氏]]を打ち破って優位に立ったため、幕府優位で成氏との和睦、征伐を望んでいた義廉の存在が無意味となり、勝元との和睦に動いたと推定される{{Sfn|石田|2008|pp=182-196,225-256,262-264}}。}}。