「宮澤俊義」の版間の差分
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1935年に[[天皇機関説事件]]が発生して師の美濃部が激しく攻撃された時には、東大で憲法学を教えていた宮澤も激しい批判の対象とされた。[[蓑田胸喜]]によれば、「美濃部達吉氏に対してと共に厳粛に司法行政的処置がなさるべきである」{{sfn|蓑田胸喜|1935|pp=202-203}}「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」{{sfn|蓑田胸喜|1941|pp=202-203}}とされた。
[[国体明徴声明]]で[[天皇機関説]]が公式に否定されて以降は、これに積極的に異議申し立てをすることはなかった。戦時下の東大法学部の阿諛追従ぶりを批判した[[小田村寅二郎]]によれば、1937年度の法学部講義では[[天皇]]の統治権についての説明を行わずにこの問題を回避していた{{Sfn|江崎|pp=285-286}}。
[[大政翼賛会]]については、『[[改造 (雑誌)|改造]]』1941年1月号掲載の論文「体制翼賛運動の法理的性格」において、万民翼賛は帝国憲法のみならず、肇国以来の憲法の大原則である、として積極的に擁護し、[[間接民主主義|議会制民主主義]]を時局にそぐわず不十分である、と論じた{{Sfn|江崎|pp=242-246}}。
[[日本の降伏|終戦]]直後は、天皇機関説事件の以前と同様に帝国憲法の[[立憲主義]]的要素を擁護し、美濃部と同じく改正不要の立場を表明していた{{sfn|古関彰一|2015|p=132-133}}。しかし、宮沢によって書かれた松本草案(乙案)に近い内容の「試案」が、自身の弟が記者をしている[[毎日新聞]]からスクープされると2月1日の閣議で問題とされ、松本国務相は某(宮沢のことを指す)の弟が同新聞記者なるため善意か悪意か判らぬが抜かれたのであろうと説明<ref>{{Cite book|和書 |title=憲法改正経過手記 |date=昭和21年1月~5月 |publisher=所蔵 国立国会図書館 資料番号 入江俊郎文書16 |page=4}}</ref>がなされる有様で、しかも[[公職追放]]の嵐が[[官僚]]だけでなく更に学会も及ぶ時勢もあって、帝国憲法擁護のままでは追放の危険が迫るや、思想的立場を転向させ、1946年3月までには、GHQ案を原案とした憲法に対し憲法改正は[[平和]]国家の建設を目指すものだ、との主張に転じた{{sfn|古関彰一|2015|p=142-143}}。その後、1946年5月には{{sfn|古関彰一|2015|p=177-178}}[[大日本帝国憲法]]から[[日本国憲法]]への移行を法的に解釈した[[八月革命説]]を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月における[[ポツダム宣言]]の受諾により、主権原理が[[天皇主権]]から[[国民主権]]へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。この主権原理の変動により、大日本帝国憲法の内容も大きく変容し、国民主権原理と両立し得ない部分は、その効力を失った。こうした変容を被った大日本帝国憲法は、日本国憲法と法的に連続している。つまり、変容後の大日本帝国憲法の改正として、日本国憲法の成立は説明できるとするものである。
{{要出典|date=2023年11月|範囲=その他では、法哲学者である尾高朝雄との尾高・宮沢論争(国体論争)も有名で、その他公共の福祉の解釈における一元的内在制約説の主張など、後の憲法学界に多大な影響を残した}}。
{{要出典|date=2023年11月|範囲=帝国憲法下における[[帝国議会]]を国民の代表として位置づける美濃部の議論に対して、帝国議会の議員は有権者から命令委任を受けておらず、したがって、真の意味において帝国議会は国民の代表とは言えないとする批判を展開した。この議論は、国会および国会議員を国民の代表とする日本国憲法43条のいう「代表」とは、法的意味ではなく、政治的意味の代表にとどまるとする現在の通説に引き継がれている}}。
{{要出典|date=2023年11月|範囲=公共の福祉に関する一元的内在制約説とは、憲法の保障する基本権を制約する根拠となるのは、他の人々の基本権でしかあり得ないとの前提から、こうした基本権相互の矛盾・抵触を調整する実質的公平の原理が公共の福祉であるとするものである。ただ、この議論は、基本権の制約根拠は他の基本権以外にも容易に想定できるのではないかとの批判や、他者の基本権を侵害しえないことは、各基本権の保護範囲の存在によってより説得的に説明し得るのではないかとの批判を被っている}}。
{{要出典|date=2023年11月|範囲=天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した}}。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」などと述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。{{要出典|date=2023年11月|範囲=変説の理由について西修は「東京帝大教授で憲法の権威であった宮澤には[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から相当の圧力があったであろう」という説を紹介している}}。
== 親族 ==
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[[江崎道朗]]は、天皇機関説論争以降の宮澤の変節ぶりを批判し、宮澤が大政翼賛会に関与しながら公職追放されなかったのは、新憲法制定の過程でGHQに積極的に協力したためではないか、と推測している{{Sfn|江崎|pp=247-248}}。
古関彰一によれば、1946年に宮澤が当初の自説から大日本帝国憲法の根本的な改正の立場に転じたのは、[[マッカーサー草案]]の予想外の内容を知った宮澤が当時東京帝国大学の総長であった[[南原繁]]にそれを知らせ、南原が東京帝国大学という組織として、GHQの方針に素早く適応して、組織の政治的立場を確保する行動をとったことに伴うものだったとされる{{sfn|古関彰一|2015|p=142-150}}。第二次世界大戦中の日本では、宮澤のみならず、[[鈴木安蔵]]や[[杉森孝次郎]]、[[堀真琴]]なども[[大東亜共栄圏]]を礼賛しており、当時は社会科学者のみならず文学者も哲学者も体制に順応するしか生きる方法がなかったと、古関は指摘している{{sfn|古関彰一|2015|p=210-211}}。一転して第二次世界大戦後の占領下の日本では学界のみならず映画や芸能関係者に至るまで、GHQに取り入ることが日常茶飯事であった{{sfn|山村明義|2014|p=156-158}}。
== 社会活動 ==
[[1964年]][[12月1日]]に第三次[[選挙制度審議会]]委員として、(1)[[小選挙区制]]は[[政党]]支持を分極化する。また[[野党]]が反対して実現が難しい。小選挙区制に[[比例代表制]]を加味する方式は複雑であり、国民にとって違和感が強い。(2)[[中選挙区制]]によって生ずる同士討ちなど個人本位の選挙の弊害是正のため[[制限連記制]]に改める。(3)これにより個人本位の選挙の弊害、派閥の対立がなくなり政局の安定に役立つ。有権者に与える違和感はなくなる。として中選挙区
[[1965年]]から[[1971年]]まで、[[日本野球機構]]の第4代[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]](コミッショナー委員会{{efn2|このときは3人の合議制による「コミッショナー委員会」でコミッショナー権限を行使していた。委員は宮澤の他に[[金子鋭]]、[[清原邦一]]だったが、清原が健康上の都合([[1967年]][[11月11日]]没)で途中交代して、[[中松潤之助]]がその後を担当した。宮澤らは1971年3月までコミッショナー委員を務めた。}}の委員長)を務めていた。コミッショナー在籍時には[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト制度]]の導入を行った。また[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]の収拾にも奔走
[[1970年]][[3月18日]]には[[衆議院]][[法務委員会]]]に[[参考人]]として呼ばれ、事件に関する質問の矢面に立った<ref>プロ野球の黒い霧 国会で追及続く 憲法学者も立ち往生 特効薬を教えてほしい『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月19日 12版 15面</ref>。
== 著作 ==
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=== 論文集 ===
* 『[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]] 法の精神』(岩波書店、1937年)
* 『固有事務と委任事務の理論』(有斐閣、1943年)
* 『民主制の本質的性格』([[勁草書房]]、1948年)
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* 『憲法と政治制度』(岩波書店、1968年)
* 『日本憲政史の研究』(岩波書店、1968年)
* 『
* 『憲法論集』(有斐閣、1978年)
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* [[清宮四郎]] - 同時代の憲法学者。
* [[大石義雄]] - 同時代の憲法学者。
* 『[[憲法はまだか]]』 - [[日本放送協会|NHK]]が[[1996年]]に放映した日本国憲法制定までのいきさつを描いた[[テレビドラマ]]。宮澤俊義を[[近藤正臣]]が演じた。
== 参考文献 ==
* 小学館 『日本大百科全書(ニッポニカ)』
* ブリタニカ国際大百科事典『小項目事典』
* {{Cite |和書|author = 蓑田胸喜|authorlink = 蓑田胸喜|year = 1941|title = 国家と大学 : 東京帝大法学部に対する公開状|publisher = 原理日本|url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456568|ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 蓑田胸喜|authorlink = 蓑田胸喜|year = 1935|title = 美濃部博士の大権蹂躪 : 人権蹂躪・国政破壊日本万悪の癌腫禍根|publisher = |url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269531|ref = harv }}
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