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[[1923年]]に野球部創部。[[1925年]]春、[[東京新大学野球連盟 (旧連盟)|東京新大学野球連盟]](のちに東京新十大学野球連盟)を結成し加盟。同25年秋、[[東京大学運動会硬式野球部|東京帝大]]の加盟と共に[[東京六大学野球連盟]]が結成され、日大もこれに加盟の打診をしていた<ref>[[赤尾好夫]] 『野球大観』 [[旺文社]]、1949年、61頁</ref>。同25年10月23日、[[尾久]]グラウンドにて日本巡業で来日したアメリカの[[女子野球]]チーム フィラデルフィア・ボビーズと対戦し、6-0で日大の勝利となった<ref>[https://npb.jp/archives/japanesebaseball150th/sights/detail039.html 聖地・名所150選 東京都尾久グラウンド跡] NPB[[日本野球機構]]</ref>。11月には関西巡業で[[立命館大学硬式野球部|立命館]]とも対戦している。
 
[[1931年]]、[[国学院大学硬式野球部|國學院大]]、[[専修大学硬式野球部|専修大]]、[[中央大学硬式野球部|中央大]]、[[東京農業大学硬式野球部|東農大]]と共に[[東都大学野球連盟]]の前身である五大学野球連盟を結成。初代監督に大沢逸郎([[明治大学硬式野球部|明治大]]OB)を迎える。最初の合宿所は[[杉並区]][[天沼 (杉並区)|天沼]]で近くにグラウンドがあったが、その地には現在、[[日本大学第二高等学校|日大二高]]の校舎が建っている。戦前戦後にかけて東都大学リーグ戦で専大、中大との三つ巴の戦いのなか、この2校に後塵を拝する時期が続いた<ref>戦前期の東都大学リーグ戦での優勝回数は専大12回、中大7回、日大2回である(『野球大観』 61頁)。</ref>
 
[[戦後]]すぐの、投打の柱の[[田宮謙次郎]](1948年末に中退し[[阪神タイガース|大阪タイガース]]入団)と[[根本陸夫]](1947年に出場停止処分で中退し[[法政大学野球部|法大]]へ転校)のバッテリーが活躍していた頃からまもない[[1948年]]秋、初の専任監督として香椎瑞穂(第5代)が就任。就任以後の16シーズンで8回の優勝をして日大の第1期黄金時代を築き、名将(「東都の[[ケーシー・ステンゲル|ステンゲル]]」)といわれた。[[河内忠吾]]投手、[[島津四郎]]投手、[[人見武雄]]らが活躍した[[1950年代]]を中心に専大と日大の2強時代を形成し、その間、それぞれ優勝回数は9回・8回にのぼる(中大は2回)。