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{{Infobox Military Structure|name=海軍石垣島南飛行場<br/>(平得飛行場・大浜飛行場)|___location=[[沖縄県]][[石垣市]]平得|image=Bombing on the airfield at Ishigaki 1945.jpg|image_size=320|caption=石垣島南飛行場への爆撃 (1945年) 英国海軍アーカイヴスより|type=[[沖縄の旧日本軍施設]]|built=1944年|materials=|used=|controlledby=[[日本帝国陸軍]]|garrison=|commanders=|battles=|coordinates_region=|image2=日本軍が石垣島で建設した飛行場.png|image2_size=200|image2_alt=|caption2=日本軍が石垣島で建設した三カ所の飛行場}}
[[ファイル:石垣島の旧日本軍飛行場 (第三航空艦隊司令部 南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 より).png|サムネイル|296x296ピクセル|(図1) 日本海軍[[第三航空艦隊]]司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11) から。平得飛行場は左端。]]
[[ファイル:Ishigaki_Jima_Japanese_Military_Airfield_1944.png|サムネイル|(図3) 米軍が沖縄本島で鹵獲した日本海軍資料を米海軍が翻訳した資料の一部。]]▼
[[ファイル:海軍石垣島南飛行場(平得飛行場).png|サムネイル|第20爆撃軍ターゲットマップに掲載された空中写真。]]
[[ファイル:Ishigaki_Airfield_1944.png|サムネイル|
▲[[ファイル:Ishigaki_Jima_Japanese_Military_Airfield_1944.png|サムネイル|(図3) 米軍が4月に沖縄本島で鹵獲した日本海軍資料を米海軍が翻訳した資料の一部。|295x295ピクセル]]
[[ファイル:Sakishima_Gunto_Operation_Iceberg_map.png|サムネイル|294x294ピクセル|(図4) 英国太平洋艦隊は1945年3月15日に米国第5艦隊に加わり、第57任務部隊(タスクフォース57)に任じられた。TF57は沖縄侵攻作戦「アイスバーグ」の一環として3月27日から空爆を開始した。]]
'''海軍石垣島南飛行場''' (かいぐんいしがきじまみなみひこうじょう) は、旧日本軍が[[沖縄県]]の[[石垣島]]に建設した3つの飛行場のうちの一つで、当時の大浜村と石垣町平得にまたがる広大な地域に計画された海軍飛行場で「平得飛行場」あるいは「大浜飛行場」ともよばれた。
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== 海軍石垣島南飛行場 ==
1942年6月、[[ミッドウェー海戦]]の惨敗で多くの航空母艦を失った日本海軍は、南西諸島の各所に飛行場を建設し、(空母のかわりに) 島を拠点として航空作戦を展開する「浮沈空母」構想を重視した<ref name=":0" />。同月、佐世保海軍施設部は石垣島に海軍飛行場の建設を指令した<ref name=":1">「平得飛行場建設の土地接収」沖縄県『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』戦争証言 八重山編 (1) pdf</ref>。
1944年10月付の日本海軍第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」は、南飛行場の進展状況を次のように記している<ref>防衛研究所収蔵・第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)</ref>。なお、この資料は米軍が沖縄で鹵獲し、米海軍が翻訳した資料 (図3)<ref>CINCPAC CINCPOA Bulletin No. 112.45, 12 MAY 1945: Digest of Japanese air bases special translation number 65▼
▲1944年10月付の日本海軍第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(図1) は、南飛行場の進展状況を次のように記している<ref>防衛研究所収蔵・第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)</ref>。なお、この資料は米軍が4月に沖縄島で鹵獲し、米海軍が翻訳した資料 (図3)<ref>CINCPAC CINCPOA Bulletin No. 112.45, 12 MAY 1945: Digest of Japanese air bases special translation number 65
なお、この資料は4月1日以降に米軍が沖縄で鹵獲した資料を米海軍が5月12日に翻訳し報告したものである。ちなみに4月18日頃、米海兵隊は沖縄島北部の掃討戦で宇土部隊が撤退した後の真部山の壕から大量の資料を鹵獲した。</ref> と考えられる。▼
▲なお、この資料は4月1日以降に米軍が沖縄で鹵獲した資料を米海軍が5月12日に翻訳し報告したものである。ちなみに4月18日頃、米海兵隊は沖縄島北部の掃討戦で宇土部隊が撤退した後の真部山の壕から大量の資料を鹵獲した。</ref> と同一のものと考えられる。
* 主滑走路 1500x200 完成
* 副滑走路 1500x150 工事中
* 副滑走路 1400x150 未着 (中止)
米軍が1944年10月3日に撮影の空中写真を解析したターゲットマップ (図2) <ref>Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), Air Forces and Bomber Commands: XX Bomber Command</ref>では、建設中の副滑走路の位置が大きく異なっている。
=== 用地の接収と徴用 ===
1943年9月頃、海軍の新飛行場建設のため、大浜村と石垣町平得にかけて382筆747,127㎡という広範囲な用地接収が開始された。接収に当たっては機密事項とされ、軍の指示で書類が作成され、一方的に通告をうけた住民は動揺した。土地代金等は134人の地主に2割が現金、8割は強制預金の証書で支払われた<ref name=":0" />。{{quotation|作物の補償は一文もなかったということである。土地代、建造物の補償評価も一方的になされ、土地代は最高が坪当り一円最低が十銭であった。土地代の支払い業務は村役所が当たり、土地代、建造物の補償金は二割を受領し、残る八割は強制的に鹿児島興業銀行八重山代理店に定期及び当座預金をさせられ、証書のみ渡された。しかし多くの部落民が二割の現金をも、戦争に勝利するためと勧められ預金させられたりした。|「平得」飛行場建設の土地接収『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』八重山 (1) pdf}}1944年1月8日、佐世保鎮守府から「航空基地整備要領」が命令され、海軍南飛行場の新規工事が北飛行場の拡張工事と並行して始められた<ref name=":0" />。1944年7月7日に[[サイパンの戦い|サイパン島]]が陥落すると、大本営は「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」を策定し、南西諸島方面の各飛行場建設を急がせた。作業は住民や朝鮮人軍夫を含め昼夜兼行で進められ、8月下旬には50x2,000mの主滑走路が完成し、つづいて補助滑走路や誘導路と掩体施設(駐機場)などが続いた。建設には本土の原田組が当たり、地元の住民が大勢徴用されるだけではなく、朝鮮人軍夫も百人ほど送り込まれたという<ref name=":1" />。[[沖縄県立八重山高等学校|八重山中学校]]では[[鉄血勤皇隊]]が組織され、先生に引率されて、連日、工事現場に動員された<ref>「泥水飲んで飛行場作業」『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』八重山編 (1)</ref>。{{quotation|原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。滑走路の真中で機銃掃射を受けた日の恐怖は今も忘れることができない。|「泥水飲んで飛行場作業」『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』八重山編 (1)}}老若男女問わず周辺の小浜島などからも建設に徴用されるが、原田組の監督の厳しさは、小さなおにぎりで「牛馬のように」こき使い、少しでも時間に遅れると「めったうちに殴る」という厳しいものだった<ref>「飛行場建設のための小浜島からの徴用」沖縄県『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』八重山編 (1)</ref>。このようにして住民は連続して飛行場建設に徴用された。
[[ファイル:A TBM plane from USS Suwannee attacks Ishigaki Airfield (1945-4-16).png|サムネイル|233x233ピクセル|米海軍護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]の艦載機が石垣島南飛行場の主滑走路の南東部分を爆撃する。拡大するとクレーターだらけの滑走路と掩体壕などが確認できる。4月16日]]▼
▲[[ファイル:A TBM plane from USS Suwannee attacks Ishigaki Airfield (1945-4-16).png|サムネイル|233x233ピクセル|米海軍護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]の艦載機が石垣島南飛行場の主滑走路の南東部分を爆撃する。拡大するとクレーターだらけの滑走路と掩体壕などが確認できる。]]
=== 空爆と機銃掃射 ===
1944年10月12日、空爆と機銃掃射を受ける。飛行場建設に動員された住民は[[機銃掃射]]にあう。{{quotation|十月十二日、いわゆる十・十空襲の翌々日のことであった。いつものように飛行場人口で集合、先生に引率されて作業現場へ行く途中のことである。滑走路の真中にさしかかったころ、突然急降下する音が聞えたかと思うや、バリバリと、やったのである。引率の先生方は、「伏せ伏せ!」と大声で叫び、手で制しながら、あとは立ち上がって叫んでおられる。しかし、生徒は、まともに機銃掃射を浴びたのははじめてなので、気も動転せんばかりである。先生方の制する言葉も耳に入らない。蜘蛛の子を散らしたように四方八方へ逃げてしまった。さいわいに怪我人は一人も出なかった。米機はまたも引き返えして来ては、バラバラ、どかんとやる。生きた心地はしないのである。|「泥水飲んで飛行場作業」『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』八重山編 (1)}}1945年1月1日午前10時頃から飛行場への空爆があり、その後ほとんど連日昼夜とわず艦載機が来襲し、夜間は午前2時頃にやってきた。3月に入ると、飛行場だけではなく、平得、真栄里、大浜、宮良、 白保などの民間地への爆撃も始まり、6月にはもっとも熾烈を極めたが8月12日を最後に空襲が亡くなった。飛行場に近接した地域には機銃掃射が多く、また爆撃、焼夷弾攻撃も行われた。こうした激しい爆撃と日本軍の疎開命令で、多くの住民がマラリア有病地に移動、空襲が終わるころには、マラリアが猛威を振るい住民を襲うようになる ([[戦争マラリア]]) <ref name=":0" />。
1945年3月15日からは米海軍に加わり、英国太平洋艦隊が先島群島の封じ込めに加わる。
== 出撃記録 ==
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=== 旧・石垣空港 (1956-2013) ===
日本軍によって接収された南飛行場の747,127㎡のうち、国有地化された面積は、2001年現在336,000㎡であり、一部を除いて'''旧[[石垣空港]]'''として利用され、それ以外の土地に関しては、1950年頃から旧地主らが米国民政府に借地料を払って農地として利用した<ref>{{Cite web |title=<終わらぬ夏 戦後74年>(上) 旧日本軍に接収され 補償も返還もないまま:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/19911 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2024-03-09 |language=ja}}</ref>。1986年から1987年に旧地主や耕作者に対しての払い下げが行われた<ref name=":0" />。
2013年3月、白保地区に[[新石垣空港]]が開港。平得にあった石垣空港は廃止となったが、跡地となった国有地は今も、元地主の下に返っていない。「空港は消滅したのだから、国は地主に残りの土地を返還し、それができないなら、何らかの形で補償すべきだ」と山田さんは訴える。
=== 跡地の再開発 ===
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