「陸軍石垣島飛行場」の版間の差分

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== 土地の接収と建設 ==
公刊戦史としては、白保飛行場の建設は1943年末に陸軍航空本部経理部が着手し<ref>防衛庁防衛研究所戦史室『[[戦史叢書]] 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』[[朝雲新聞社]]、1970年7月、24頁</ref>、1944年5月下旬に工事が[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]に引き継がれてたという記録がある<ref>防衛庁防衛研究所戦史室『[[戦史叢書]] 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』[[朝雲新聞社]]、1970年7月、{{要ページ番号|date=2024-03}}39頁</ref>。しかし、登記簿謄本記載の土地売買契約日は1944年6月10日となっており、土地の接収以前にすでに違法に工事に着工していたのではないかと考えられる<ref>『旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書』沖縄県、2004年3月、98頁</ref>。
 
 
 
白保飛行場はあわせて284筆、総面積894,691㎡ (270,644坪) が接収された<ref>『旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書』沖縄県、2004年3月、104頁</ref>。{{quotation|軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。必要な所をみな測量し終えた後で、土地代は大浜村役場で支払う。印鑑をもって取りに来いということだった。全く国側の一方的な仕打ちで地主はただ国家の指示する価格に従わなければならなかった。このようにして白保の飛行場用地は国に取りあげられたのである。そして山田部隊、浅沼部隊などが入りこんで来、飛行場建設に着工したのであった。工事がすすむのに従い作物の収穫もしなければならない。たいへんいそがしかった。宮良○○ (当時四五歳ごろ) さんなども芋をたくさん植えてあり、それを収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。…|五、白保飛行場の土地接収『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』より}}陸軍は建設開始からわずか2カ月で主滑走路を完成させ、副滑走路や掩体壕、誘導路の工事が続く。そのために多くの老若男女が徴用された。当時の大浜村立青年学校の校長は、1944年6月頃から校長を筆頭に全学あげて朝から白保飛行場建設に駆り出されていたことを記録している。{{quotation|真夏の照り輝く太陽の下で、汗まみれにツルハシをふるう生徒、モッコで士砂を運ぶ婦女子、馬車の往来、人海戦術の飛行場建製でした。たしか壮年団、婦人会、中学生、国民学校の生徒たちを含めると1000人ぐらいはいたと思います。石垣から白保への道は、朝夕、飛行場建設に徴用された人たちでいっぱいでした。七月に入り、「サイパンで日本軍全滅」とニュースが伝えられたが、軍部は「神国日本がまける筈がない。いま敵を引き寄せて一挙に勝敗を決するのだ。」と豪語して、苛酷なほどに飛行場建設のために、徴用人をこき使うのでした。わたしも、戦争が終る前まで、日本国の神州不滅論を生徒にとうとうと説き、励げましていました。そうしたら二、三日で終戦となりました。あの時の気持は複雑怪奇で自分でどう整理していいかわからない状態でした。|「青年学校生徒の白保飛行場建設」『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』より}}多くの住民は、1943年の[[海軍石垣島南飛行場|海軍の平得飛行場]]の建設から引き続き、1944年の陸軍の白保飛行場の建設へと動員され、また牛馬や建築資材も供出を強いられた。地元の男性を白保特設工兵隊 (隊長・[[高良鉄夫]]) として徴兵し、任務は主に飛行場の補修と整備、壕の構築、爆弾・燃料の積み込み作業などであった。3月から連日のように襲来する米英の爆撃機は、滑走路をクレーターだらけにして使用不可能にさせることを目的としていたが、日本軍は日々この弾痕を埋め、なんとか飛行場を持続させるためのシシフォス的な労苦を住民に強いた。台湾からの特攻機の中継地として利用するためであった。白保飛行場が壊滅的な状態になると、1945年には付近に秘密飛行場を建設した。{{quotation|睡眠時間は昼の一時間で、その後は夜の二時頃まで働かされました。一、二中隊は飛行場の弾痕埋め、そのために白保部落の石垣がみな低くなっています。三~五中隊は飛行機を格納庫に出し入れする仕事でした。格納庫といっても、白保海岸近くの雑木林をきり開いてつくった所で偽装しやすいようにつくってありました。飛行機が飛び立つのは赤下の秘密飛行場で、そこまで飛行機をおさなければなりませんでした。夜しか飛行機はおせませんでした。昼はもう敵の空襲にあい、どうしようもなかったのです。特に一九四五年(昭和二十年)の三月以降はたいへんひどかったものです。特攻機は台湾から薄暗くなって白保飛行場に着陸し、燃料の補給、搭乗員が休養をとり、未明に飛び立つようになっていました。白保飛行場から赤下近くの秘密飛行場まで飛行機おして歩くのはなみたいていのことではありませんでした。午後五時頃から午前二時頃まで飛行機おしをさせられたのにはたいへんつらい思いをしました。|「四、飛行場建設のための小浜島からの徴用」『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』より}}こうした証言から、[[宮良秘密飛行場]]といわれた特攻用の秘匿基地が白保飛行場と連動して使用されていたことがわかる。