「森永ヒ素ミルク中毒事件」の版間の差分
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[[森永乳業]]は、1953年頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、[[リン酸水素二ナトリウム|第二燐酸ソーダ]](Na<sub>2</sub>HPO<sub>4</sub>)を[[粉ミルク]]に添加していた。試験段階では純度の高い試薬1級の製品を使用していたものの、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用(無規格品)に切り替えられていた。
[[1955年]]に徳島工場([[徳島県]][[名西郡]][[石井町]])が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」(製造所コード「MF」の刻印がある缶)の製造過程で用いられた「第二燐酸ソーダ」に多量のヒ素が含まれていたため<ref name="konamilk"/>、これを飲んだ1万3千名もの乳児が[[ヒ素中毒]]になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。
この時に使用された「第二燐酸ソーダ」と称する物質は、実際の第二燐酸ソーダとは似て非なる物であり、元々は[[日本軽金属]]が[[ボーキサイト]]から[[アルミナ]]を製造する過程で輸送管に付着した副産物(廃棄物)・低純度の[[リン酸三ナトリウム|燐酸ソーダ]](Na<sub>3</sub>PO<sub>4</sub>)であり、これに多量(4.2〜6.3%)のヒ素が混入していた。この副産物が複数の企業を経た後に、松野製薬(「製薬」の商号があるが医薬品ではなく工業用薬品のメーカーだったことが明らかになっている<ref group="注釈>{{quotation|「大阪の府庁を通じてこの松野製薬なるものを調べたわけでございます。そうしましたら、その返事といたしまして、これは医薬品の製造会社ではない。工業薬品のメーカーであるという返事が参ったわけでございます。」|昭和45年8月11日、参議院社会労働委員会で[[藤原道子]]の質問に厚生省の加藤成二が答弁}}</ref>)に渡り生駒薬化で脱色精製させた。森永乳業によると<ref>{{Cite book|和書|title=森永乳業五十年史|date=1967.9|year=1967|publisher=森永乳業}}</ref>松野製薬は米山化学工業株式会社の「第二燐酸ナトリウム」の木箱を偽造し純良品に夾雑させ、これを徳島の協和産業へ全て純正品として納入。森永乳業徳島工場が協和産業へ発注し納品された。ただし事件後の裁判においては、当該ロットが納品される際、安い品であり問題があれば返品して欲しいと協和から通達があり、徳島工場製造課においても色が変であることに気付いていたとされている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.grips.ac.jp/cms/wp-content/uploads/2014/05/fulltextdoc09001.pdf |title=中島貴子(2013), 科学技術のリスク評価における非専門家の役割 -森永ヒ素粉乳中毒事件を中心に-, 政策研究大学院大学博士論文 |access-date=2022-05-08}}</ref>
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