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[[沖縄戦]]
[[日本本土への艦砲射撃]]|兵力=|作戦機=|基地=|ニックネーム=|モットー=|バッヂ=|主な戦歴=|image_size=320|country=[[英国海軍]]<br/>
[[オーストラリア海軍]]、[[カナダ海軍]]、[[ニュージーランド海軍]]}}'''イギリス太平洋艦隊''' (イギリスたいへいようかんたい) (British Pacific Fleet; BPF) は、[[第二次世界大戦]]の[[太平洋戦争]]末期において、[[イギリス海軍]] (Royal Navy) が対日本戦のために編成した艦隊。1944年11月22日[[セイロン島|セイロン]]にてで結成され、イギリス海軍およびオーストラリア、ニュージーランド、カナダの[[イギリス連邦]]海軍の空母、戦艦、潜水艦、補給船などで編成された。艦隊は、1945年1月24日の南洋諸島での日本の補給経路封鎖 ([[メリディアン作戦]]) から始まり、3月からは、米軍の沖縄侵攻作戦 ([[アイスバーグ作戦]]) を後方で支援するため、[[石垣島]]と[[宮古島]]の6つの日本軍飛行場を無力化した。当然ながら日本の[[神風特別攻撃隊|カミカゼ]]による激しい攻撃にさらされたが、[[装甲空母|重装甲空母]]と最新の戦闘機で効果的に防御した。1945年7 月には[[日本本土への艦砲射撃]]作戦に参入、1945年8月に日本が降伏するまで、戦艦4隻、空母6隻、小型空母15隻、および750機以上の[[艦載機]]を有した。
 
== 概容 ==
イギリス太平洋艦隊 BPF の司令官は[[ブルース・フレーザー|ブルース・フレイザー]]卿で、オーストラリアのシドニーに本部を置き、実際の艦隊作戦はヘンリー・ローリングス中将が、また航空作戦はフィリップ・ヴィアン中将が指令となった。空母は六隻の[[イラストリアス級航空母艦]]、すなわち、
 
* R87 [[イラストリアス (空母・初代)|イラストリアス]] (HMS Illustrious) 艦載機識別記号 Q
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* R10 [[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]] (HMS Indefatigable) 艦載機識別記号 S
 
という[[装甲空母|重装甲空母]]が所属。また HMS [[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]および HMS [[ハウ (戦艦)|ハウ]]という2隻の戦艦、巡洋艦6隻と駆逐艦12隻があり、[[イギリス連邦]]海軍から、カナダの巡洋艦「ウガンダ」、ニュージーランドの巡洋艦「アキレス」および「ガンビア」、オーストラリアの駆逐艦「キブロン」 「クイーンボロー」「ニザム」「ネーピア」「ネパール」「ノーマン」が参加した。イギリス、カナダ、南アフリカ、ニュージーランド海軍で構成された人員によって、[[F4U (航空機)|コルセア]]、アベンジャー、ヘルキャット、シーファイアなどの艦載機が運用された<ref name=":0">{{Cite web |title=British Pacific Fleet. Database of the Fleet Air Arm Archive 1939-1945 |url=https://web-archive-org.translate.goog/web/20120716190130/http://www.fleetairarmarchive.net/Ships/BPF/Britishpacificfleethomepage.html?_x_tr_sl=auto&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja |website=web-archive-org.translate.goog |date=2012-07-16 |access-date=2024-03-11}}</ref>。またBPFの艦載機は尾翼に識別コードを記している<ref>{{Cite web |title=Armoured Aircraft Carriers |url=https://www.armouredcarriers.com/task-force-57-british-pacific-fleet |website=Armoured Aircraft Carriers in World War II |access-date=2024-03-11 |language=en-GB}}</ref>。
 
 
* 1945年1月24日~29日、[[メリディアン作戦]]
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== イギリス太平洋艦隊の誕生 ==
イギリス海軍は1942年から1943年にかけて[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|米国太平洋艦隊]]司令長官兼[[海軍作戦部長]][[アーネスト・キング]]提督からの支援要請を繰り返し断っていた。1942年の[[セイロン沖海戦]]で[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]がインド洋西側領域まで撤退を強いられた後、イギリス海軍には、北極海から、北大西洋、地中海、インド洋にわたる広範囲な戦域をさらに拡大するための余裕はなかった。しかしイタリアとドイツの艦隊が無力化された時点においては、イギリス海軍が日本軍との戦いに参入し極東の海域における自らの存在を示すことか重要に思われた。しかし[[アーネスト・キング|キング]]提督の返事は快いものではなかった。アメリカ海軍は英国の支援なくしても既に単独で日本艦隊に決定的な敗北をもたらす用意ができていたからである。ドイツ優先戦略の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]英首相も当初は太平洋艦隊の創設に難色を示していたが、対日本戦に加わり、太平洋での英国のプレゼンスを示すことが必要であるとする[[イギリス陸軍]][[アラン・ブルック (初代アランブルック子爵)|アラン・ブルック]]元帥ら参謀本部の主張を無視することはできなかった。1944年9月28日、チャーチルは議会でこの「新しい局面」について演説した<ref>{{Cite web |title=WAR AND INTERNATIONAL SITUATION (Hansard, 28 September 1944) |url=https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1944/sep/28/war-and-international-situation |website=api.parliament.uk |access-date=2024-03-11}}</ref>。{{quotation|私は英国政府を代表し、米国大統領に英国は全力と資源を尽くして最後まで対日戦争を遂行すると約束した。前回での議会演説で宣言したように、日本には米国が被った損害と少なくとも同等か、実際にはそれ以上の損害を修復し、返済してもらわなければならない借りがある。私たちはオーストラリアとニュージーランドに対して、彼らの国に対する日本の脅威を永久に取り除くために支援する義務がある。そして、彼らはドイツとの戦いにおいてあらゆる面で私たちを助けてくれたので、私たちは彼らに効果的な援助を与えることに決して後れをとってはならないのです。|イギリス議会での[[ウインストン・チャーチル]]首相の演説 (1944年9月28日)}}1944年9月12日から4日間ひらかれた[[第2回ケベック会談]]において、チャーチルが対日戦争へのイギリス海軍の参入を提起し、2か月後、[[ルーズベルト大統領]]は外交的配慮からチャーチルの申し出を受け入れたが<ref>Nicholse Sarantkes, "The Short but Brilliant Life of the British  Pacific Fleet", Joint Force Quarterly (National Defense University Press) issue 40 1st quarter 2006, p. 86. </ref>、英国嫌いと呼ばれたアメリカ海軍作戦部長[[アーネスト・キング]]提督はイギリス艦隊との連携に難色を示した<ref name=":0" /><ref>ウイリアムソン・マーレー「第二次世界大戦における米国の戦略とリーダーシップ―二正面戦略をめぐる問題―」(防衛研究所、2003) 113頁
 
</ref>。キング提督は、イギリス太平洋艦隊が補給を「自給自足」するのであればという条件を付けた。彼はイギリス海軍がアメリカ海軍に貢献するどころか、イギリス海軍が自立して極東地域で[[兵站]]と補給を持続できるとは考えていなかった。また熱のこもったチャーチルの議会スピーチのわりに本国からの支援は薄く、洋上補給の対応を長年積み重ねてきた米軍と比較し、洋上補給を前提にしていない仕様のイギリス艦隊は、タンカーの船尾にあるホースを使って燃料を移送し<ref name=":1" />'''、'''完了するまで恥ずかし「ばつの悪いほどの長い時間」がかかった<ref name=":2">{{Cite web |title=The Forgotten Fleet |url=https://warfarehistorynetwork.com/article/the-forgotten-fleet/ |website=Warfare History Network |access-date=2024-03-20 |language=en-US}}</ref><ref name=":1" />。イギリス太平洋艦隊の大半は、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アメリカといった[[イギリス連邦]]の海軍から構成された。
 
こうした困難を伴う状況下で、新艦隊の司令官には[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]司令長官だった[[ブルース・フレーザー|ブルース・フレイザー]]提督が任ぜられた。優れた指導力と戦術家であるだけではなく、兵站上の難点を克服するためにフレーザーの外交官的な資質が必要と発揮された<ref name=":3">David Hobbs, [https://www.usni.org/magazines/naval-history-magazine/2013/january/royal-navys-pacific-strike-force "The Royal Navy's Pacific Strike Force"], Naval History Magazine Volume 27, Number 1 (January 2013) [https://archive.is/Mt6O2 Archive]</ref>。米英海軍の緊密な連携は回避しなければならない、という上層部の判断は、実際の洋上ではなんの妨げにもならず、むしろ「自給自足」原則に関して、多くのアメリカ海軍士官が「全力を尽くしてそれを無視した」<ref name=":1">Nicholse Sarantkes, "The Short but Brilliant Life of the British  Pacific Fleet", Joint Force Quarterly, National Defense University Press, pp. 85-86.</ref>といわれるほど、両艦隊の関係は敬意に満ちた良好なものであった。アメリカ海軍士官らは司令官ダグラス・フィッシャー少将に「キング提督の知らないうちに与えられるものは何でも」提供することができると語った<ref name=":1" />。
 
== メリディアン作戦 ==
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'''アイスバーグI作戦 (1945年3月27日~4月20日)'''
 
1945年3月15日、イギリス太平洋艦隊は[[レイモンド・スプルーアンス]]提督下の[[第5艦隊 (アメリカ軍)|米国第5艦隊]]に加わり、第57任務部隊(TF57)に任じられた。その任務は、アメリカ軍が沖縄侵攻計画[[アイスバーグ作戦]]を実行するにあたって大きな脅威となる台湾と先島群島の[[神風特別攻撃隊|神風特攻隊]]の飛行場基地を、フィリピン沖に停泊するイギリス艦隊が遮断し封じ込めるというものであった。ヴィアン中将らは直前にアメリカ海軍から膨大な空中写真などの資料を与えられた。それらの情報によると、先島群島の日本軍施設には「7つの飛行場、1つの報告されているが未確認の水上飛行機基地、小規模な海軍基地の可能性、そして警備部隊の司令部」が含まれていたという(図1)<ref>{{Cite web |title=NAVY BLUE FIGHTER PILOT — Episode Three |url=https://www.vintagewings.ca/stories/donsheppardepisode3 |website=Vintage Wings of Canada |access-date=2024-03-12 |language=en-CA}}</ref>。この「7つの飛行場」のうち、西表島の南側「西表飛行場」があるという情報に関しては、おそらく誤情報であったと思われる (西表島の陸軍[[船浮臨時要塞]]の軍施設は西海岸に集中しており、また飛行場も確認できていない)。{{quotation|先島郡島には[[石垣島]]と[[宮古島]]という 2 つの大きな島があった。その各島にはそれぞれ3つの飛行場が設置されていた。これらは可能な限り作戦から遠ざける必要があった。 <br/>
[[石垣島]]:<br/>
・石垣メイン(舗装、重AA26本、軽AA66本)(註 [[海軍石垣島南飛行場]])<br/>
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最短でも数日かかる長い補給期間に加えて、もう一つの問題は、イギリス太平洋艦隊の攻撃戦闘機であるシーファイア Mk XV の機械的な問題とスペアパーツの欠如で、戦闘任務の続行が難しかった。またその長い機首はパイロットの視界を妨げ、機銃掃射や空母への着陸を困難にさせた。第57任務部隊が実際に運用していた他の航空機のほとんどはアメリカ製で、コルセア、ヘルキャット、アベンジャーであった<ref name=":2" />。
 
しかしながら、[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]提督は、ボルネオ島へのオーストラリア軍上陸を支援させるために第57任務部隊を送るというワシントンの提案に激しく抵抗した。イギリス太平洋艦隊の重装甲空母がカミカゼ攻撃に対してその価値する耐性を繰り返し示してきたため、ミニッツはそれを先島群島に留めておきたかった。
[[File:HMS_Formidable_(67)_on_fire_1945.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:HMS_Formidable_(67)_on_fire_1945.jpg|右|サムネイル|5月4日のカミカゼ攻撃をうけ出火した空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]。]]
'''アイスバーグII作戦 (5月4日~25日)'''
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第57任務部隊はレイテ島での修理と補修を終えて出港し、5月4日に先島郡島沖で第2回目の空爆作戦を開始した。平良飛行場 ([[海軍宮古島飛行場]]) と野原飛行場 ([[陸軍宮古島中飛行場]]) に砲撃を加えるため幾つかの戦艦と巡洋艦が出撃し、レーダー網が手薄になった10時30分頃、防御環を突破した一機が空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]の甲板を襲い、爆発を引き起こして艦の装甲甲板を貫通、また甲板上の多数の航空機を大破させた。この爆発で8人が死亡、47人が負傷し、鉄の甲板に直径7mのへこみと60cm程の穴が開いた。数分後にさらに2機の特攻機が空母[[インドミタブル (空母)|インドミタブル]]に向かい、1機は撃墜したものの、もう1機が対空砲弾の凄まじい集中砲火のなか接近し、甲板を横切ったところで爆発した。この被害は軽微で済んだ。''フォーミダブル''の火災を鎮圧するまでに90分かかったが、6時間以内に甲板は鋼板とセメントで修復され、重装甲空母の耐性を強力に示した。
 
5月9日、悪天候と給油のための補給期間を経て第57任務部隊は活動に戻り、再び特攻に直面した。[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]の前部エレベーターが攻撃され、甲板が損傷して砲塔も破壊された。また二機が[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]を攻撃し、甲板は破られなかったが艦載機25機を炎上させ、一名が犠牲となった。標的となった二隻はその日のうちに運用を再開した。
 
第57任務部隊は5月26日にアイスバーグII作戦を完了するまで4,893回の出撃を行い、そのうち2,073回の攻撃を行い、958トンの爆弾を投下し、950発のロケット弾を発射した。艦隊は160機の航空機を喪失し、そのうち撃墜されたものが26機、また運航事故で損傷したものが72機。航空乗組員41名と艦上の将兵44名が死亡または行方不明となった<ref name=":2" /><ref name=":3" />。
[[ファイル:BPF and a hellcat, July 1945.jpg|サムネイル|日本近海を並んで飛ぶアメリカ海軍ヘルキャットとイギリス太平洋艦隊の艦載機 (1945年7月)]]
 
== 日本本土爆撃 ==
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空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]と第37任務部隊は17日に本州の飛行場と鉄道に対する空爆を行った。35機のコルセア、11機のアベンジャー、6機のヘルキャットを配備して、日本の松島と仙台、蓮田の飛行場を攻撃した。また空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]は12機のコルセアで新潟飛行場を攻撃した。18日、悪天候のなか[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]は東京地区の茂原、鳴門、蓮田の飛行場、[[インプラカブル (空母)|インプラカブル]]は鴻池飛行場、午後、[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]は香取飛行場、鴻池飛行場、北浦飛行場を攻撃、空母[[インプラカブル (空母)|インプラカブル]]は立川と鳴門の飛行場を攻撃した。19日の朝も悪天候になやまされた。
[[ファイル:BPF - British Navy planes blast Takamatsu Airfield (03).jpg|サムネイル|1945年7月24日、アベンジャーが高松の飛行場を空爆する。]]
'''日本本土攻撃 第二 (7月24~2524~8月2日)'''
 
空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]はコルセア 34 機、アベンジャーズ 12 機、ヘルキャット 6 機を配備して、倉敷、岡山、高松の飛行場を攻撃、一人が砲撃を受け死亡。空母[[インプラカブル (空母)|インプラカブル]]は12機のシーファイアで高松と徳島の飛行場を攻撃、空母[[インプラカブル (空母)|インプラカブル]]は12機のコルセアで高松と徳島の飛行場、[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]は高松と「スタ」の飛行場を攻撃した。
 
'''日本本土攻撃 第三 (8月8日~12日)'''
 
[[File:Admiral_Sir_Bruce_Fraser_signs_the_Japanese_surrender_document_for_Great_Britain_on_board_USS_MISSOURI_in_Tokyo_Bay,_2_September_1945._A30425.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Admiral_Sir_Bruce_Fraser_signs_the_Japanese_surrender_document_for_Great_Britain_on_board_USS_MISSOURI_in_Tokyo_Bay,_2_September_1945._A30425.jpg|サムネイル|USSミズーリでの降伏文書調印式。連合軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]とアメリカ海軍[[チェスター・ニミッツ]][[元帥 (アメリカ合衆国)|海軍元帥]]に並び、イギリス太平洋艦隊司令官[[ブルース・フレーザー|ブルース・フレイザー]]提督 (中央) が英国を代表して降伏文書に署名。]]
 
== 任務の終わり ==
1945年9月2日、フレーザー提督は東京湾の戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で英国を代表して日本の降伏文書に署名した。その夜、近くに停泊した彼の旗艦[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]では、他の連合軍指導者らを迎えて感動的な式典が行われた。その後、イギリス太平洋艦隊は、香港の救援再占領、兵士の帰還事業、日本軍にとらわれていた元捕虜のオーストラリア、カナダ、米国への移送など、戦後の多くの緊急業務に使用された。さらに[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]は600人以上のオーストラリアの戦時花嫁をイギリスの新居まで送り届けた。イギリス太平洋艦隊は1948年9月14日まで平時艦隊として活動を続けたが、その後正式に解消した<ref name=":3" />。
 
== エピソード ==
 
=== 給油と酒 ===
対日作戦に関して常に[[兵站]]補給の問題がイギリス太平洋艦隊の悩みの種であったが、イギリス海軍は艦内でのアルコールの持ち込みを許可していたため、酒類は常備されていた。一方アメリカ海軍では、本土の[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]] (1920年-1933年) に先立つ 1914年の一般命令第99号で、艦内や軍施設内でのいっさいのアルコールの持ち込みや飲用を禁止していたため、アメリカ海軍士官のなかにはイギリス艦隊への訪問を熱望するものも多かった。当初はキング提督に劣らずイギリス太平洋艦隊の存在を「漁夫の利」として嫌い、完全なる自給自足原則を唱えていたアメリカ海軍[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]司令長官[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]は、最終的には彼らにできうる限りの補給を提供した。彼は旗艦[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]と[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]の両方の士官会議の名誉会員に任ぜられており、ローリングスの旗艦[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]がアメリカのタンカーから給油を受けているあいだ、空中トロリーで乗りこんで「乾杯」したことを思い出として語っている<ref name=":4">Nicholas Evan Sarantakes [https://www.usni.org/magazines/naval-history-magazine/2024/february/making-good-once-more "Making Good Once More,"] Naval History Magazine (February 2024) U.S. Naval Institute. [https://archive.is/SSyGP Archive]</ref>。
 
またレーダーの予備部品に困った[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]が、近くにいたアメリカ海軍の駆逐艦に合図を送り、必要な部品をウイスキーのボトルと交換してくれないかと尋ねた時、返ってきた拡声器の答えは、「おいおい、ウィスキー一本と引き換えなら、このいまいましい艦を丸ごとくれてやるぞ」というものであった。イギリス海軍のハードリカーの伝統は、補給に苦労するイギリス太平洋艦隊の一つのアセットとなっていた<ref name=":4" />。
 
== 参考外部リンク ==
Royal Navy Research Archive, Royal Naval Air Squadron: [https://www.royalnavyresearcharchive.org.uk/SQUADRONS/1842_Squadron.htm A History of 1842 Naval Air Squadron]
 
* Royal Navy Research Archive, Royal Naval Air Squadron: [https://www.royalnavyresearcharchive.org.uk/SQUADRONS/1841_Squadron1842_Squadron.htm A History of 18411842 Naval Air Squadron]
* Royal Navy Research Archive, Royal Naval Air Squadron: [https://www.royalnavyresearcharchive.org.uk/SQUADRONS/1842_Squadron1841_Squadron.htm A History of 18421841 Naval Air Squadron]
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==