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== 概要 ==
いわゆる[[名代]]・子代の一種で、皇子の養育料を負担したとされる。かつては固有名詞を冠して[[額田部]]・ [[白髪部]]のように称されてきたが、后妃の資養を担当する[[私部]]の設立とともに、大王の位の継承者の地位も確立し、壬生部が置かれるようになったものと推察される。
『[[日本書紀]]』によると、[[推古天皇]]15年2月([[607年]])に[[天津神・国津神|神祇]]を重んじる[[詔]]が出された同年に設置されたとされ<ref>『日本書紀』巻第二十二、推古天皇15年2月1日条</ref>、[[皇子]]・[[皇女]]全般の部とするほか、[[大兄]]や[[皇太子]]のような[[皇位継承]]者のための部とする説もあり<ref>[[春宮坊]]や[[東宮湯沐]]に引き継がれたとする。[[遠山美都男]]『天皇と日本の起源「飛鳥の大王」の謎を解く』([[講談社現代新書]]、2003年)p.62.</ref>、湯坐(貴人の産児に湯をつかわせる役職)との関連性も問われている。
 
多くはその役目を終えると消滅するが、中には皇子の名を冠した[[品部]]として存続するものもあり、[[聖徳太子]]の薨去後も上宮家が乳部を保持し、[[蘇我入鹿]]が父[[蘇我蝦夷|蝦夷]]とともに墓を造る際に、上宮家の乳部の民を使役に使い、[[舂米女王|上宮大娘姫王]](かみつみや の おおいらつめのみこ)から非難されている<ref>『日本書紀』巻第二十四、皇極天皇元年是歳条</ref>。