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中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
 
しかし、有名なこの場面は、『日本書紀』や『藤氏家伝』の原史料の段階で作られた創作であると考えられる<ref name="倉本一宏"/><ref>[[遠山美都男]]によれば、[[板蓋宮]]の段階ではそもそも舞台となった[[大極殿]]が存在しなかったことを指摘している。遠山美都男『天皇と日本の起源「飛鳥の大王」の謎を解く』([[講談社現代新書]]、2003年)p.139.)139頁。</ref>。「天宗を尽し滅す(皇族を滅ぼし尽くした)」というのは[[山背大兄王]]や上宮王家の討滅を指すのであろうが、それと自らが皇位と替わろうという野望を抱いていたと短絡させるのは論理的ではない<ref name="倉本一宏"/>。また、斬られた入鹿が開口一番に「皇位にあらせられるべきお方は天の御子(天皇)でございます」と訴えるのもおかしな話であり、要するに、「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と「それを誅殺した偉大な中大兄皇子とそれを助けた忠臣中臣鎌足」という図式で、この出来事を描こうとしているのである<ref name="倉本一宏"/>。
 
入鹿からしてみれば、[[高句麗]]にならって権力を自己に集中させ、飛鳥の防衛に腐心して激動の東アジア国際情勢に乗りだそうとしていた矢先に、いきなり切り殺されてしまったことになる。斬られた後に叫んだという、「私が何の罪を犯したというのでございましょう」という言葉は、本当に発したものか否かはともかく、まさに入鹿の思いを象徴したものであると考えられる<ref name="倉本一宏"/>。