戸切地陣屋
戸切地陣屋(へきりちじんや)は、北海道北斗市にあった陣屋で、日本で初めて稜堡式築城術に基づく星形堡塁および19世紀当時の欧州軍事理論上における砲戦防衛のための選地・構造を採用した(後述)城郭である[1][2][3]。この項目では、同城本陣を中心とした城跡が国の史跡指定を受けた後に調査・整備された戸切地陣屋跡史跡公園についても記載する。「戸切地」はアイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、美しい(明るい)・川)」を語源とし[4]、陣屋西側を流れる戸切地川の周辺地域を指す地名である[1]。

座標: 北緯41度51分15.2秒 東経140度37分9.8秒 / 北緯41.854222度 東経140.619389度
名称について
松前藩は公称として、同地周辺広範を指す「戸切地」の地名を冠した「戸切地陣屋」を用いた(『戸切地御陣屋心得書』や『戸切地御陣家勤中御達書留』など)[1]。このほか主に他藩からの俗称として藩名からとった「松前陣屋」(『アナタヒラ松前陣屋絵図面』や『蝦夷之夢』など)、あるいは所在地近郷の名をとった「濁川(村)陣屋」(『峠下ヨリ戦争之記』)、「文月(村)陣屋」(『南柯紀行』『蝦夷錦』)などの呼称も用いられた[1]。
なお「穴平陣屋」と伝するものが昭和10年代より散見されるようになる[5]が、当時史料としては現地性のない幕府側文書にわずかに見られるのみである[1]。当時の現地名は「アナ・タ・ヒラ」(表記例として「穴太平」[6]・「穴タ平」[7]など)であり、これを「アナ・タイラ」のように分けるのは現地表記「アナタヒラ」の誤読またはその伝播と考えられる。
また、現在「清川陣屋」という通称が広く知られ、現地バス停名などにも用いられているが、「清川」という地名は明治 14年(1881年)に上述の濁川村と幕末期に新興した清水村とが合併して生まれた廃城以降の新地名であり、運営当時は用いられていない[1]。
築城経緯および立地
安政2年(1855年)の江戸幕府による北方防衛のための蝦夷地上知と、それに伴う函館平野一帯の警衛分担命令のために松前藩が構築した戊営(警衛拠点)である[1]。設計者は佐久間象山が開いた洋学塾「五月塾」に学んだ松前藩士の藤原重太(後の藤原主馬)で、前述の通り日本で初めて稜堡式築城術に基づく星形堡塁構造を本陣に採用している[1]。
現在の北斗市中央より北西に約5キロメートルに位置する舌状台地、通称「野崎の丘」の基部に築かれている。「野崎の丘」は、江戸中期の松前藩家老にして史学者であった松前広長がその著作『松前志』 (天明元年(1781年)序)において「西にアナタヒラの崖壁峙(そな)え、東大野十八郷を瞰開し、南は遥かに他郷を眺望すべく、北は楚山の深林に近く…」と防衛・眺望に利する立地条件を高く評価して「近国無双の城地」と讃え、彼の父である六代藩主・松前邦広が幕府への建白を決意しながら直後に没し果たせなかった藩拠移転の候補地に挙げている[8]。 このほか上知後の幕領期に蝦夷地内を視察した探検家・近藤重蔵は文化 4年(1807 年)に幕府に提出した「惣蝦夷地御要害之儀ニ付心付候趣申上候書付」(『蝦夷地実記』所収)において「要害之勝地」として松前福山の機能を野崎へ移すことを進言[9]するなど、城地としての評価は一貫して高かった[1]。
戸切地陣屋の本陣星堡は、この「野崎の丘」の舌状台地頂部に位置し、南西側を崖地「アナタヒラの崖壁」、北側を松前半島へと連なる山地、北東側を沢に囲まれた天然の郭状地形に守られ、本陣へのアプローチルートは南東側に延びる緩斜面に限定されている[1]。本陣星堡は土塁・壕からなる四稜堡で、うち東稜に構築されている稜堡に6基の砲座が備えられた構造となっている[10]。
構造・選地における19世紀欧州軍事理論の実践
本陣平面設計にかかる設計図は失われているが、現存遺構の考古学的形状分析などから一辺200mの正方形とその対角線・等分線を基準として行われていることが明らかとなっており[1]、その設計法ならびに各部の寸法・角度はフランスのサン・シール陸軍士官学校にて要塞学教本として用いられたニコラ・サヴァール著"Cours élémentaire de fortification[11]"(初版1812年)ならびにフレデリク・ペイトレス・フィジエス・ナニングがオランダ語に訳し補遺を加えた"Beginselen der versterkingskunst[12]"(1827年訳)(以下「サヴァール教本」)における"Gebastioneerde Forten(稜堡式要塞)"におけるテンプレートと一致する[1]。なおこの蘭訳本は佐久間象山遺品内に確認できるほか[13]、『蕃書調所書籍目録寫』のうち「建築類」にもその名が見えるなど[14]、1840年代から開国に前後する時期の幕末日本において、欧州における砲戦防衛を学ぶための初期テキストとして用いられていたことが伺える。
このほか、内面頂部全周に設けられた銃兵足場(仏:banquette)が特徴的な土塁と壕からなる外郭構造や、当時欧州軍学における砲台(仏:batterie)の構成要件である、
- 郭内の兵員および砲を守るための堡塁(仏:parapet)
- 堡塁内より砲弾を通しかつ射角を広角に取るための外側に広がる構造を有する砲眼(仏:embrasure)
- 発砲位置の較正および砲車の移動による床面へのダメージを防ぐための架台(仏:plates-formes)
を全て備えた砲座など、各部の構造にサヴァール教本をはじめとする19世紀当時欧州の砲兵の運用を前提とした防衛拠点構築理論の反映が見られる。
加えて、本陣を段丘頂部に置き、崖・沢に両手を塞がれ、大手前に長く延びる緩斜面を持つ地勢はサヴァール教本中にある、
「大砲の射程範囲(少なくとも小銃あるいはぶどう弾の射程範囲内まで)を制圧下に置く戦場を制圧し…(中略)…(陣地を置く)高台の前方には、窪みなど不可視の箇所が無い緩やかに伸びる斜面を備えていなければならない」(qui dominé le terrain environnant jusqu'à de canon; …qui le découvre exactement, au moins jusqu'à portée des petites armes et de la mitraille;Il faut encore que les Hauteurs sur lesquelles il règne se prolongent en avant, en pente douce et thiforme, de manière à ne laisser aucun pli de terrain qui ne soit éclaire et découverts.[11])
といった砲戦上の優位陣地の条件を満たしており、同陣屋の構築に当時日本で蘭学経由で学ばれた欧州軍事の理論が強く反映されていることが伺える[1]。
安政6年(1859年)の『戸切地御陣家勤中御達書留』には当時の配備大砲の種類と性能が列記されており、6ポンド短カノン砲や3キロ野戦砲のほか、13ポンドホーイッスル砲などの曲射砲も備え[15]、その射程は「野崎の丘」上を全て火制範囲に収めるものであった[1]。また、文久元年(1861年)に箱館奉行に提出された届出に見える配備砲数は27門である[16]。
こうした軍事的機能を有しながら、築城以降実戦の機会は行われず、藩内の洋式砲術拒絶派の存在[17]に加え、上記届出の同年に「野崎の丘」を兵の駐屯と開拓を目的とする献策が採択され[18]、最終的に大手通り沿いの24軒の武家屋敷群とそれを囲む土塁が築造されることとなり[19]、この結果緩斜面の可視性が損なわれ、砲戦機能は大きく減衰した[1][20]。
郭内構造と史上における役割
現存する絵図面、ならびに発掘調査により郭内には最大17棟の建物跡があったことが明らかとなっている[21]。最も古段階のものと見られる『アナタヒラ松前陣屋絵図面』(函館中央図書館蔵)では築造当初は16軒であり、西稜隅に「角場小屋」「大アツヽ(大安土)」「玉見(クランク状の土塁)」などが見え、郭内に鉄砲稽古場が備えられていたことが伺える[22][23]が、他の図面ではこれらは失われている。建物の割当は『戸切地御陣屋心得書』によれば備頭の詰める「一番御長屋」・徒士らが詰め医学所なども備える「二番御長屋」・勘定方の詰める「御勘定所」・その他足軽や卒らの詰める「大部屋」を郭内中心に設けた4つの長屋にそれぞれ割り当てている[24]。この部屋割りは時代により変動がある。このほか、書籍・米・味噌・大砲・鉄砲・厩などの各蔵や道場などが備えられていた[22][25]。
配備されていた松前藩士は120~160名と考えられている[10]。のち前述の開拓案に応じた藩士らが大手通り沿いに居を構え、後背の土地を農地とした。大政奉還の後、慶応4年(1868年)に清水谷公考が箱館府知事として五稜郭に入ると、5月に発せられた公考からの令に従い戸切地陣屋の兵が交代で出張しその防備に当たった[26][27]。箱館戦争において戦死した松前藩(館藩)藩士の履歴記録である『旧館藩士族殉難調』には、戸切地陣屋現地在住の卒であった松前藩士・高畑喜六が箱館府からの要請に応じ慶応4年7月から9月まで五稜郭守備の任に就いた旨の記録がある[28]。
以上のように、基本的には函館平野部の警衛拠点として、またそれにあたる人員の駐屯地として機能し、併せて軍事的機能に乏しい箱館府・五稜郭の補完的役割を担っていた。加えて、元治元年(1864年)には久保田から当地に渡り7年奉公した無宿の身元引受についての取り次ぎを行っているなど[29]、内政における分庁的裁量も一部担っていたと推定される。
自焼(明治元年)から現在まで
明治元年、旧幕府軍の蝦夷地上陸に端を発し勃発した箱館戦争では、戸切地陣屋守備兵は10月22日に箱館府の要請に応じ五稜郭へ援兵に出た後、峠下の夜襲(23日)・七重の戦い(24日)でつづけざまに敗れそのまま陣屋に戻ることなく撤退。松前より援兵にきた松前藩鎗劔隊も大野口の戦い(24日)で惨敗し陣屋に立ち寄らず撤退した。同日、大野の新政府側諸藩隊を駆逐した大鳥圭介の命により哨戒のため南下した伝習隊滝川充太郎・本多幸七郎の部隊の接近を見て、残る僅かな兵は建物を自焼して戦わずして撤退した[30][31]。この際滝川らは大砲2門・米150俵・其他弾薬等を鹵獲している[32][33]。
箱館戦争後、明治33年(1900年)に香雪園の造成などで知られる函館の豪商岩船家の所有するところとなり、明治37年(1904年)に旧大通り沿いに日露戦争の戦勝を祈念して桜が植樹された[34]。以降この桜並木を以て戸切地陣屋は名勝として知られることとなり、後の保存へと繋がった。
昭和40年(1965年)3月18日に国史跡に指定された(特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準のうち史跡2(城跡)による)。この際の史跡名は、上述の通り松前藩による公称であった「戸切地陣屋」を用い「松前藩戸切地陣屋跡」とされた[35]。
平成31年(2019年)より北斗市郷土資料館による再評価研究が継続して行われたほか、その成果は各年度ごとに特別展および市民講座として年度ごとに都度公開された。令和5年度には、同年度までの研究成果が同年創刊の同館紀要に論考として所収され、一般に公開されている[1]。
戸切地陣屋跡史跡公園について
戸切地陣屋跡史跡公園 | |
---|---|
分類 | 歴史公園[36] |
所在地 | |
面積 | 10.18ヘクタール[36] |
前身 | 松前藩戸切地陣屋 |
運営者 | 北斗市 |
駐車場 | 300台 |
アクセス | 函館江差自動車道北斗中央ICから車で約10分 |
戸切地陣屋跡史跡公園(へきりちじんやあとしせきこうえん)は、北海道北斗市にある公園。1977年(昭和52年)に町有地となり[37]、1979年(昭和54年)から国、道の補助を受けて環境整備を行い、2001年(平成13年)に完成した[38]。「日本の歴史公園100選」選定[39]。
毎年5月には『北斗陣屋桜まつり』が開かれる。
「桜回廊」と同城にちなんだモニュメント
北海道道96号上磯峠下線から陣屋跡へ続く800mの桜のトンネルは、上述のとおり日露戦争勝利を祈念して函館の呉服商である岩船峯次郎が表御門跡から陣屋登り口までの道に桜を植樹したものである[40]。ソメイヨシノを中心にエゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)、ヤエザクラ、珍しいジュウガツザクラ、ギョイコウもあり[41]、今日では市内各所に点在する桜の名所を繋ぐ「北斗桜回廊」[42]の一環として訪れる人々の目を楽しませている。
なお、新函館北斗駅の南口には戸切地陣屋本陣の形状を模した花壇が造営されている[43]ほか、市内庁舎の入り口マットにも本陣星堡のデザインがあしらわれている。
四稜郭との混同について~他の「〇稜郭」も含んで
なお、現在旧来の史跡説明版などにより箱館市に所在する史跡・四稜郭との混同がやや見受けられるが、警衛拠点として多数の人員の継続的駐屯を目指した戸切地陣屋と、箱館戦争末期に急造された台場または野堡(redoute[44][1])である四稜郭では構築の規模・目的・機能は全く異なる。平面面積約にしても、約14倍の開きがある。
現在世界において1,005件ほどの稜堡式城堡が確認されているが、その最小たるものは1,000㎡程度、大規模なものは数平方キロメートルを優に超える[45]。こうした実情の中、各拠点の目的、戦力、地勢といった防衛構造を後世するファクターを抜きにして外形の輪郭線の類似または近似のみでその共時性・同時性を判ずるのはあまりに危うい(こうした防御低機能の追求の結果、本日間淫できる稜堡式城郭のうち約4割に当たる436件が所謂「星形」を採らない非定型堡塁であることもまた留意すべきである[1][45])。
殊に北海道南部では、昭和40年代以降、七飯町峠下に所在する面積0.3㎡程度に満たず稜堡も有さない小型の星形野堡(star-formed-redoute)である峠下台場を「七稜郭」、桔梗野に擬定される旧台場を(正確な図面なしに)「三稜郭」[46]と表記したり、果ては稜堡式城郭とは完全に別ベクトルの海防砲台であり、かつ理論的にも交わらない多角形要塞であった弁天台場を指して「六稜郭」[47]と称するなど「〇稜郭」という呼称が濫発された。こうした「多角形を追って(その実態を知らぬまま)稜堡式を追い、勝って認定のもと「〇稜郭」の名を付す手法」は、稜堡式城堡に属するもののうち4割が地勢に合わせて構築された非定型を(例:トロワ・トート)取るという事実[48]、そして稜堡式構造に期待された機能のなんたるか、ならびに当該実践の認識の検証と大きく乖離したものであり、早急に払拭されるべきであろう(例:郭内面積125,000㎡の五稜郭と同0.㎡の「七稜郭」について、一切の知識なく字面のみから両者を正当に比較できるであろうか?)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 時田太一郎「「日本最初の星の城」松前藩戸切地陣屋における19世紀洋式軍学の実践-日本における「稜堡式城郭」の理解のために-」『北斗市郷土資料館 研究紀要』第1号、北斗市郷土資料館、2023年。
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- ^ 『湯浅此治日記』(『松前町史』史料編所収)からは、嘉永6年(1853年)より実施された藩士全員を対象とした西洋砲術稽古に対しサボタージュをする者がおり、藩主・松前崇広より今後藩内の台場・砲術を西洋流に切り替える方針であること、および肝心な時にいざ使えないでは国を危うくしかねず、これらを鑑みて稽古を怠るものには今後処罰を以て対応することを検討する旨の達書が嘉永7年(1854年)5月8日付で出ていることが確認できる。 安政3年(1856年)には「砲術不熟之趣」により文武上覧が中止に至り、藩士一同に一層の精励が勧奨されるとともに、稽古に出席しないものへの処分検討の旨が重ねて通知されるが、この藩風は以降も長く改まらず、箱館戦争直前に勃発したクーデター時には、知洋派の徹底した粛清(松前勘解由・遠藤又左衛門・関左守といったペリー来函時の貢献者は悉く死に追いやられた。『庚午弾劾録』によると、同じくペリーを応接した戸切地陣屋設計者である藤原主馬もこのとき微罪を以て責められ自死に追いやられたという)、洋式砲術藩校であった威遠館の取り潰し、松前湾内の西洋式海防砲台8ヶ所中6ヶ所の廃止(『法源寺公宗用記録』内達書控)、刀・槍・柔術などの近接戦闘を主体とする鎗劔隊の主力部隊としての新設(『北門史綱』巻之八)など時代に逆行する施策が次々ととられることとなる。 結果、松前城下での防衛戦では「具足」「槍」「薙刀」に「火縄銃」といういでたちで旧幕府軍に相対する有様であった(『松前懐古座談会』)。
- ^ 『「北門史綱」巻之三『松前藩と松前』32号』松前町史編纂室、1990-03-31 エラー: 日付を year と date に分けずに date にまとめて記入してください。(説明)、p.68頁。
- ^ 『北海道史蹟名勝天然記念物調査報告書』(大正13年)における河野常吉による踏査記録図に大通りを挟み12対・24軒の屋敷跡および土塁跡が記録されている。
- ^ なお、この緩斜面の一部は平成期の道路造成によっても損なわれている。
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- ^ 本件については拙稿において詳説したが、2025年3月31日時点で確認した世界各国83ヶ国・1005件の稜堡塁城堡のうち最も日何時が高いのが非定型タイプ436件(43.4%)であった。ついで四稜堡308件(30.6%)、五稜堡143件(14.2%)、六稜堡53件(5.3%)、七稜堡21件(2.1%)、八稜堡24件(2.4%)九稜堡以上13件(1.3%)となる。
- 最初の星の城』松前藩戸切地陣屋における19 世紀洋式軍学の実践 -日本における「稜堡式城郭」の理解のために-」北斗市郷土資料館研究紀要第1号、2024年、2025年6月1日閲覧。
- “松前藩戸切地陣屋跡”. 北斗市歴史年表. 北斗市. 2016年1月6日閲覧。
- “松前藩戸切地陣屋跡”. 北海道ファンマガジン. PNG Office (2008年3月13日). 2016年1月6日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 攻城団ブログ【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】(2023年、10回に分けた連載で近年において大きく変化した戸切地陣屋に係る評価のポイント、および稜堡式城郭における出稿当時最新のトピックについて記載している)
- 北斗市で松前藩戸切地陣屋特別展 「日本最初の星形要塞」の秘密に迫る
- 松前藩戸切地陣屋跡 | 北斗市観光協会(従前評価に基づく)
- 松前藩戸切地陣屋跡 | 函館市公式観光情報サイトはこぶら(従前評価に基づく)
- 松前藩戸切地陣屋跡 - 北海道 花めぐり・庭めぐり