二・二六事件

1936年に東京府東京市で発生したクーデター未遂事件

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二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした反乱事件、クーデター未遂事件である。

事件概要

大日本帝国陸軍派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、腐敗が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して

の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害した。また、岡田首相は殺害されたと伝えられたが、これは反乱部隊の勘違いで、殺害されたのは義弟の松尾伝蔵首相秘書官であった(詳細は#重臣らへの襲撃)。

その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

襲撃決意の背景

革命的な国家社会主義北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三野中四郎香田清貞栗原安秀中橋基明丹生誠忠磯部浅一村中孝次らを中心とする、皇道派の影響を受けた青年将校の一部は、政治腐敗不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。

これを危険視した陸軍中枢が、陸軍士官学校事件において磯部と村中を免官したことも、彼等の中で上官に対する不信感を生んだ。陸軍中枢では「危険思想がある」と判断して、長期にわたり憲兵に青年将校の動向を監視させていた。皇道派統制派との反目は度を深め、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を1935年昭和10年)8月12日白昼に相沢三郎中佐が斬殺する事件まで引き起こされた(相沢事件)。

1932年(昭和7年)に起きた、五・一五事件犬養毅首相を殺害した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも、一部の青年将校に影響を与えたとも言われる。但し、五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断による行動であって、将校としての地位を利用して天皇から預かった兵卒動員して事件を起こしたわけではない。

資金源は三井財閥がこのような時のため、危険防止に用意した金で、民間人である渋川善助水上源一がこれを受け取り北ルートで安藤らに渡していた。このため三井は襲撃の対象とされなかったと言われている。

青年将校らは主に東京衛戍歩兵第1連隊、近衛歩兵第1連隊及び歩兵第3連隊に属していたが、第1師団満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取り、第1師団が渡満する前に、決起することとなった。そして、一部青年将校らは、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起することを決定した。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田税(北の弟子であり、国家社会主義思想家)は時期尚早であると主張したが、強硬論が勝った。

決起書は野中名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。

事件経過

陸軍将校の指揮による出動

反乱軍は、襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。

歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。襲撃時刻前後においては、まだは降っていなかったが、事件当日は雪であった。

反乱軍は、圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、首相官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官又は憲兵の激しい抵抗を受け、これらの警察官又は憲兵を殺害し又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされる。

重臣らへの襲撃

岡田啓介

 
岡田啓介首相

政府の首班として岡田啓介内閣総理大臣(海軍大将)が襲撃の対象となっている。

全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いた。

反乱部隊が首相官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長(官邸内で殺害)、土井清松巡査(林八郎少尉を取り押さえようとするが、殺害される)、清水与四郎巡査(庭)、小館喜代松巡査(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で果敢に応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力の前に抵抗むなしく殺害される。しかし、警察官の応戦の隙に岡田啓介首相は押入れに隠れることができた。反乱将校らは首相に容貌の似ていた松尾大佐を殺害し、目的を果たしたと思いこんだ。

首相生存を知った福田首相秘書官と迫水首相秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らの協力を得て、翌27日に岡田首相を弔問客に変装させて官邸から救出した[1]

高橋是清

 
高橋是清子爵

高橋是清大蔵大臣(子爵)は陸軍省所管予算を削ろうとしていたことから恨みを買い、襲撃の対象となる。積極財政により不況からの脱出を計った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、今度は緊縮政策に取りかかる。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これが平素から海軍に対する予算規模(対海軍比十分の一)の不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに、火を付ける形となった。

中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮する。赤坂表町3丁目の高橋是清大蔵大臣の私邸が襲撃される。警備の玉置英夫巡査が奮戦するが玉置巡査も重傷を負う。反乱部隊は蔵相の殺害に成功する。

事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られる。27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。

斎藤實

 
斎藤実子爵

斎藤實内大臣(子爵・海軍大将)は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから、襲撃を受ける。

襲撃部隊は、坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる。四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣の私邸が襲撃される。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内府(内大臣)の殺害に成功する。他に犠牲者はいない。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それがすべてではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。目の前での惨劇に、春子夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先をつかもうとした。その結果腕に貫通銃創を負う。しかしながら夫人はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。夫人の傷口はすぐに手当がなされたものの化膿等により、その後一週間以上高熱が下がらなかった。夫人は98歳まで生存したが、晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。この事件発生当時に着用していた斎藤実および春子夫人の衣服が斎藤実記念館に現物展示されている。

事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より誄(るい:お悔やみの言葉の意)を賜った。

渡辺錠太郎

渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)は反乱将校らが心酔する真崎甚三郎大将の後任として教育総監になったことから、襲撃を受ける。真崎を追い落とした奸賊である、とされたのである。

斎藤内府私邸襲撃後の高橋少尉及び安田少尉が襲撃を指揮する。時刻は遅く、午前6時過ぎに杉並区上荻窪2丁目の渡辺錠太郎教育総監の私邸が襲撃される。その際、牛込憲兵分隊から派遣されて警護に当たっていた憲兵伍長及び憲兵上等兵並びに渡辺大将は、反乱部隊に拳銃で応戦するが殺害される。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が暗殺されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。渡辺が殺された重臣と同様、青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。目前で父を殺された彼の娘の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。

事件後に位一等追陞されるとともに勲一等旭日大綬章が贈られる。28日付で、教育総監部本部長の中村孝太郎陸軍中将に教育総監代理が仰せ付けられた。

鈴木貫太郎

 
鈴木貫太郎男爵

鈴木貫太郎侍従長(男爵・海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。

安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮する。麹町区三番町の侍従長官邸が襲撃される。妻の鈴木たかの懇願により、安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、一命を取り留める。

安藤大尉は、以前に鈴木侍従長を訪ねて時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と言い、一時、決起を思い止まろうとしたとも言われる。

のち、鈴木は内閣総理大臣となり、ニ・ニ六事件当時の部下(侍従武官)であった阿南惟幾(後に陸軍大臣)とともに、立場を異にしつつ終戦工作に関わることとなる。

牧野伸顕

 
牧野伸顕伯爵

牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣(内府)として天皇の側近にあったことから襲撃を受ける。

河野寿大尉が民間人を主体とした襲撃部隊(河野航空兵大尉以下8人)を指揮する。湯河原の伊藤屋旅館の元別館である光風荘にいた牧野伸顕前内府が襲撃される。警護の皆川義孝巡査は河野大尉らに拳銃を突きつけられて案内を要求され、従う振りをするが、振り向きざまに発砲し、襲撃部隊の河野大尉及び宮田晃予備役曹長を負傷させる。皆川巡査は殺害されるがこれによって襲撃を食い止める。脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇するが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人がおぶって逃げた。 牧野前内府救出の際に、岩本亀三(旅館主人)と森鈴江(牧野前内府使用人の看護婦)がそれぞれ銃創を受け負傷する。

  • 吉田茂の娘であり、牧野の孫にあたる麻生和子はこのとき偶然にもこの旅館を訪れていた。彼女が晩年に執筆した著書『父吉田茂』(光文社)のニ・ニ六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されている。脱出に至る経緯については、上の記述とは多少異なった内容となっている。

警視庁

当時、不穏な世情に対応するため警視庁特別警備隊(現在の機動隊に相当する)や対テロ特殊部隊である警官突撃隊(現在の特殊急襲部隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威であった。

そのため、野中四郎大尉指揮の襲撃部隊(約500名)が警視庁を襲撃する。襲撃部隊はその圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。

警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。

警察、特別高等警察を管掌する内務省警保局の幹部は第二次大本教弾圧のために京都にいたため対応が遅れたが、在京の事務官の生悦住求馬は九段の軍人会館(現九段会館)の司令部に乗り込んで情報統制検閲)の一切を行った。

後藤文夫

治安維持を担当する後藤文夫内務大臣官邸も襲撃される。歩兵第3連隊の鈴木少尉が襲撃部隊を指揮する。後藤内相本人は外出中で無事だった。

霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠

更に、反乱部隊は陸軍省及び参謀本部朝日新聞東京本社なども襲撃し、東京の政治の中枢部である霞ヶ関・三宅坂一帯を占領した。

鎮圧へ

 
戒厳司令部が置かれた軍人会館

当日午後には軍事参議官達の会議の上、川島義之陸軍大臣によって反乱に理解を示すかのような陸軍大臣告示が東京警備司令部から出される。

また、26日午後3時に第1師管に戦時警備が発令された(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。

27日正午に香椎戒厳司令官は宮中に参内して、戒厳令下における帝都の治安状況について奏上した。27日午後0時45分に川島陸相は宮中に参内して、昭和天皇に拝謁を賜り、その後に本庄繁侍従武官長と会見した。昭和天皇は、立憲主義に反して大御心(「おおみこころ」と読む。天皇の意思のこと)を騙り天皇の重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒し、灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じた。(『朕ガ股肱(「頼りにしている家来たち」という意味)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』)さらには天皇自ら近衛部隊を率いて反乱軍と戦う(『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ此レガ鎮定に当タラン』)、という発言も残されている(ちなみに立憲主義に反する言動については、後に西園寺公望から激しく諌言される事となる)。

その後も、なお陸軍首脳部は武力鎮圧を躊躇し、戒厳令が敷かれると反乱部隊までもが戒厳部隊に編入されるような措置を採った。また、反乱部隊以外にも、警備中の歩兵第3連隊の新井勲中尉が、部下を率いて配置地区を離れるという動きもあった(後に新井中尉は、無断で部隊を連れて配置を離れた廉により禁錮6年の有罪判決を受ける)。

28日午前に「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」との奉勅命令が下達された。この奉勅命令は「占拠」の言葉を使い、襲撃将校らの行動を違法と認めているが、その文面はなお武力鎮圧を匂わせるものではなかった。

29日午前5時10分に討伐命令が発せられる。午前8時30分に攻撃開始命令が下される。愛宕山のNHKも反乱部隊の襲撃に備えて憲兵隊が固めた。反乱部隊は29日に抵抗もせず帰順し、反乱は敢え無く失敗に終わった。その際のビラで播かれた「下士官兵ニ告グ、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」という反乱部隊の投降を呼びかける文言や「勅命下る 軍旗に手向かふな」のアドバルーンの写真は有名。ラジオでも「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである―」に始まる同趣旨の文章が流された[2]

憲兵隊は、反乱部隊を制圧できるほどの装備・兵力を有していなかったので、事件後は表立って決起将校の逮捕には行動できないでいた。しかしながら、憲兵は軍事警察を掌る任務を有しており、決起将校の行動が違法であることは明らかであった以上、反乱部隊に与せずあくまで職務を忠実に守ろうと努めた。

3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉が3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。

3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士兵の総数は千四百数十名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50数名、歩兵第1連隊は400数十名、歩兵第3連隊は900数十名、野戦重砲兵第7連隊は十数名であったという。

海軍の動き

 
米内光政・横須賀鎮守府司令長官

襲撃を受けた岡田首相、鈴木侍従長、斉藤内大臣は、いずれも海軍大将であり、麹町にあった海軍省は事件直後より、反乱部隊に対し徹底抗戦体制を発令し臨戦態勢に移行、26日午後には横須賀鎮守府米内光政司令長官)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊東京湾に急行させ27日午後には戦艦長門以下艦隊の砲門を反乱軍に向けた。

この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦愛宕以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。

関係者の処遇

反乱軍将校の免官等

2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となる。3月2日に山本又も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階[3]の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。

殉職警察官処遇

村上嘉茂衛門
巡査部長。警視庁警務部警衛課勤務(首相官邸配置)。死亡。
土井清松
巡査。警視庁警務部警衛課勤務(首相官邸配置)。死亡。
清水与四郎
巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(首相官邸配置)。死亡。
小館喜代松
巡査。警視庁警務部警衛課勤務(首相官邸配置)。死亡。
皆川義孝
巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。茨城県出身。1927年(昭和2年)警視庁巡査に採用され、1934年(昭和9年)警視庁警務部警衛課勤務となり、1936年(昭和11年)2月牧野伯爵礼遇随衛となる。伯爵居館への反乱軍侵入を阻止。
玉置英夫
巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。

殉職した警察官は、勲八等に叙され白色桐葉章を授けられる。また、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与される。

皇道派陸軍幹部

また、事件に関係したことを疑われて予備役に編入された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、軍部大臣現役武官制が復活することとなった。

この軍部大臣現役武官制は、このように陸軍の政治干渉に関わった将軍らが、陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにする目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。

なお、事件当時の皇道派の主要な人物としては、荒木貞夫大将や陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将、東京警備司令官(2月27日以降は戒厳司令官を兼任した)の香椎浩平中将などがいた。

また、侍従武官長本庄繁大将は、女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、また事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の聖旨に沿わない奏上をしたことから事件後辞職した。

事件に関わった下士官兵

以下この事件に関わった下士官兵は、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは歩兵による突撃戦法を強要されてほとんどが戦死した。

なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事、また衆議院議員)。

捜査・公判

事件の裏には、陸軍中枢の皇道派大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。戒厳司令官を務めた香椎浩平中将も皇道派であった。

この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。

当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。

第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 首魁ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

この構成要件に基づいて、戒厳令下、臨時に設置された東京陸軍軍法会議で裁判が行われる。

事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。

そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において、公判が行われる。青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。反乱将校たちは事件の重大性を分かっていなかった。”行動を起こせば天皇陛下はお喜びになる”と楽観していた。

現在から見れば勝手な独りよがりに見える彼らのこの思いこみは、当時は彼らなりに根拠を伴っていた。五・一五事件において、殺人テロの実行者に死刑判決は下されなかった。これを受けて二・二六事件の実行者達は、なぜ五・一五では、首相を殺しておきながら死刑を受けた者がいなかったのか、という命題に対し、”実行者達の維新実行の気概がお上のお心に達し、実行者達はお上から情状酌量を直々に賜ったのだ”と思い込んでいた。名指しの糾弾にしろ自決指名にしろ、天皇が一軍人のことを考えるという時点で、その軍人にとっては非常な名誉であった時代である。教育では、明治維新を「御一新」、上からの改革として、混乱きわまる幕末において天皇がついに親政を持って君臨され、その光が君側匪賊どもを退治し、世の中を完全に浄化することが出来た、それがために日本は列強に並ぶ国家になることが出来たのだ、つまり天皇は絶対に正しく、間違いがあるとすれば天皇を何者かが妨害した時である、と教えていた。皇国無窮の歴史観である。そして世の中は、彼らの目には幕末以来の混乱を示しているように見えた。だからこそ、彼らは親政を望み、昭和維新を実行したのである。

判決

自決

自決等

階級 氏名 所属部隊 年齢
歩兵大尉 野中四郎 歩兵第3連隊第7中隊長 32歳
航空兵大尉 河野寿 所沢陸軍飛行学校操縦科学生 28歳

階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。

第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 香田清貞 第1旅団副官
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 安藤輝三 歩兵第3連隊第6中隊長
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵中尉 栗原安秀 歩兵第1連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 竹嶌継夫 豊橋陸軍教導学校
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 対馬勝雄 豊橋陸軍教導学校付
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 中橋基明 近衛歩兵第3連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 丹生誠忠 歩兵第1連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 坂井直 歩兵第3連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵中尉 田中勝 野戦重砲第7連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 工兵少尉 中島莞爾 陸軍砲工学校生徒
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵少尉 安田優 陸軍砲工学校生徒
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 高橋太郎 歩兵第3連隊
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 林八郎 歩兵第1連隊
死刑 叛乱罪(首魁) 元歩兵大尉 村中孝次 32歳
死刑 叛乱罪(首魁) 元一等主計 磯部浅一 30歳
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 渋川善助 30歳
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 麦屋清済
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 常盤稔 歩兵第3連隊
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 鈴木金次郎 歩兵第3連隊
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 清原康平 歩兵第3連隊
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 池田俊彦
禁錮4年 歩兵少尉 今泉義道 近衛歩兵第3連隊

第2次処断(7月29日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
無期禁錮 叛乱者を利す 歩兵大尉 山口一太郎 歩兵第1連隊中隊長
禁錮4年 叛乱者を利す 歩兵中尉 柳下良二 歩兵第3連隊
禁錮6年 司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る 歩兵中尉 新井勲 歩兵第3連隊
禁錮6年 叛乱予備 一等主計 鈴木五郎 歩兵第6連隊
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 井上辰雄 豊橋陸軍教導学校
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 塩田淑夫 歩兵第8連隊

背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢(判決時)
禁錮3年 歩兵中佐 満井佐吉 45歳
禁錮5年 歩兵大尉 菅波三郎 34歳
禁錮3年 歩兵大尉 大蔵栄一 35歳
禁錮4年 歩兵大尉 末松太平 35歳
禁錮3年 歩兵中尉 志村睦城 27歳
禁錮1年6月 歩兵中尉 志岐孝人 27歳
禁錮5年 予備役少将 斎藤瀏 59歳
禁錮2年 越村捨次郎 37歳
禁錮3年 福井幸 35歳
禁錮3年 町田専蔵 31歳
禁錮1年6月 宮本正之 24歳
禁錮2年(執行猶予4年) 加藤春海 34歳
禁錮1年6月(執行猶予4年) 佐藤正三 24歳
禁錮1年6月(執行猶予4年) 宮本誠三 29歳
禁錮1年6月(執行猶予4年) 杉田省吾 36歳

背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡)

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
死刑 叛乱罪(首魁) 北輝次郎 52歳
死刑 叛乱罪(首魁) 元騎兵少尉 西田税 34歳
無期禁錮 叛乱罪(謀議参与) 亀川哲也
禁錮3年 叛乱罪(諸般の職務に従事) 中橋照夫

1937年(昭和12年)8月19日に、北輝次郎・西田税の刑が執行された。

真崎大将判決(昭和12年9月25日判決言渡)

事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936(昭和11)年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇、そして戦後まで生き長らえる。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
無罪 叛乱者を利す 大将 真崎甚三郎 軍事参議官

その他判決

罪名 階級 氏名 所属部隊 年齢
死刑 水上源一 27歳
禁錮15年 予備役歩兵曹長 中島清治 28歳
禁錮15年 予備役歩兵曹長 宮田晃 27歳
禁錮15年 軍曹 宇治野時参 歩兵第1連隊 24歳
禁錮15年 予備役歩兵上等兵 黒田昶 25歳
禁錮15年 一等兵 黒沢鶴一 歩兵第1連隊 21歳
禁錮15年 綿引正三 22歳
禁錮10年 予備役歩兵少尉 山本又 42歳

刑の執行

 
二・二六事件慰霊碑(東京都渋谷区)

二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区神南にある。昭和11年2月26日、同所にあった皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。

その後

この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深く、事件から41年後の昭和52年2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていたという。

また、西園寺公望から諌言された事もショックだったようで、その後は「君臨すれど統治せず」の態度を徹底するようになった。日米開戦を承諾し、戦局が悪化し高松宮宣仁親王らが和平を主張しても曖昧な態度に終始したのも、これが原因であったと言われる(最終的には聖断によりポツダム宣言受諾に至るのだが)。

脚注

  1. ^ http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0305/read1.html
  2. ^ NHK放送博物館江戸東京博物館で聴くことが出来る。ビラとは若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後問題とされた。
  3. ^ 大尉は正七位、中尉は従七位、少尉は正八位であった。

参考文献

  • 伊藤隆北博昭 編『新訂二・二六事件 判決と証拠』(朝日新聞社、1995年) ISBN 4022568364
    ※二・二六事件裁判の正式判決書、校訂を加え、初公刊する。
  • 北博昭『二・二六事件全検証』(朝日新聞社[朝日選書]、2003年) ISBN 4022598212
    ※「相沢事件判決書」の全文を附録として掲載〔p231~p271〕、そして詳細な「おもな引用・参考文献」表を付載〔p221~p230〕。
  • 筒井清忠『昭和期日本の構造――二・二六事件とその時代』(講談社学術文庫、1996年/ちくま学芸文庫, 2006年) ISBN 4061592335ISBN 4480090177
  • 高橋正衛『二・二六事件――「昭和維新」の思想と行動(増補改版)』(中央公論社[中公新書]、1994年) ISBN 4121900766
    ※詳細な「参考文献」一覧表を付載〔p207~p210〕。
  • 須崎慎一『二・二六事件――青年将校の意識と心理』(吉川弘文館、2003年) ISBN 4642079211
  • 秦郁彦『昭和天皇五つの決断』(文春文庫、1994年) ISBN 4167453029
  • 秦郁彦『軍ファシズム運動史』(原書房、1980年増補版)
  • 迫水久常『機関銃下の首相官邸――二・二六事件から終戦まで』(恒文社、1986年新版) ISBN 4770402643
  • 岡田貞寛『父と私の二・二六事件――昭和史最大のクーデターの真相』(光人社NF文庫、1998年) ISBN 4769821867
  • 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文芸春秋、1995年) ISBN 416350480X
  • 原秀男・澤地久枝・匂坂春平 編『検察秘録 二・二六事件』1~4(角川書店、1989~1991年)
  • 澤地久枝『雪はよごれていた――昭和史の謎二・二六事件最後の秘録』(日本放送出版協会、1988年) ISBN 4140051345
  • NHK取材班『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」――二・二六事件秘録』(日本放送出版協会、1980年)
  • 中田整一『盗聴――二・二六事件』(文藝春秋社、2007年) - 『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録』の増補版

関連項目